賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

「賭人ぬ宝(かけんちゅぬたから)」

 
先月のことだが永田町での某議連会合で、沖縄関連の政治ブログを運営している沖縄出身の方(うちなーんちゅ)にお会いした。しばしの雑談の間、話題になったのが私のこのブログ『賭人がゆく』の読み方だった。
 
そもそも『賭人』という言葉は “博奕打ち”、“ギャンブラー”を指す中国語である。マカオや香港を含む華南圏で話される広東語の読みでは、「どぉうやん」。しかし日本に『賭人』という語彙は伝わらなかったので、日本語の読みは無い。
 
私自身は『賭人』を「とじん」、「とにん」、「かけびと」等々、その時の気分で発音しているといういい加減さで、さらに沖縄の方と談じたことから新たな読み方まで生み出してしまった。
 
それは、「かけんちゅ」
したがって『賭人がゆく』は「かけんちゅがゆく」になる。
 
ちなみに沖縄出身の「BEGIN」の代表曲、島人ぬ宝(しまんちゅぬたから)、この歌詞はある意味『賭人』のわたしにとっても含蓄の深いものがある。
 
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♪ 僕が生まれたこの島の空を
僕はどれくらい知ってるんだろう
輝く星も 流れる雲も
名前を聞かれてもわからない
でも誰より 誰よりも知っている
悲しい時も 嬉しい時も
何度も見上げていたこの空を
教科書に書いてある事だけじゃわからない
大切な物がきっとここにあるはずさ
それが島人ぬ宝
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沖縄の青い海空と、マカオやラスベガス、シンガポールのカジノシーンとでは雰囲気に雲泥の差がありそうだが、共通しているのはこの歌詞↓
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教科書に書いてある事だけじゃわからない
大切な物がきっとここにあるはずさ
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「賭ける」という行為は、人間にとって欠かすことの出来ないものである。個人でいえば就職や結婚もその範疇に入るだろうし、会社経営ではプロジェクトの成否や新分野への参入、政治家にとっては選挙と政策実施後の成否、そして国家レベルでの最たるものが「戦争」という事になるだろう。
 
しかし孫子計篇の冒頭言に曰く、
「兵は国の大事なり。 死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり」戦争は国家の一大事であって、国民の生死、国家の存亡が係っているから、その実行についてはよくよく考えねばならない)
とあり、また「算多きは勝ち、少なきは勝たず」とも書かれているように、すべての戦略を実行するに際して必要なのは「情報収集」と「分析」、そして冷徹な判断という合理性の追求である。そこにあるのは、「賭け」の部分を極力排除しようとする姿勢といえよう。
 
麻生太郎氏の愛読書である『ゴルゴ13』、デューク東郷の仕事に「賭け」の領域は存在しないに等しい。つまり依頼された仕事に番狂わせが生じないだけの徹底した調査と対策が講じられているからである。
 
ところが、そうは言っても世の中には、計測不可能な部分が数多く残っている。
例えば金融では、現代投資理論を駆使したヘッジ・ファンドが意外にあっけなく潰れるのは何故か。また数年前に潰れたリーマン・ブラザーズのように、多数のアナリストを擁しながら破綻してしまう会社もある。
 
政治家にとっては選挙が「戦争」、時流に乗った一発勝負は長続きしない。地歩を確実に固めて、少しでも「賭け」の部分を減らしてゆく事が勝敗を分けるのは誰しも判っているが、それでも番狂わせが起きるのは皆さんご承知のところである。
 
つまり「賭ける」という行為は計測困難なものに挑むという事であり、極めて人間らしいものではないだろうか。そうであるならば、人生で大切なプラスアルファの部分で勝ち抜く能力、所謂「勝負強さ」を身に付けたいものである。
 
しかしそれは、教科書で学べるものでない。そもそも計測困難なものに挑む「賭ける」という行為や「勝負強さ」自体が教科書に載っているものではない。ただ「カジノ」という所は、「賭ける」という行為を通して「勝負強さ」を知ることが出来るかも知れない存在ではある。
 
繰り返すが、
教科書に書いてある事だけじゃわからない
大切な物がきっとここにあるはずさ
 
それが「島人ぬ宝」ではなくて「賭人ぬ宝」、つまりカジノと云えるのではないだろうか。
 
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