賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

憲法改正をもっと容易に!

 
今朝JR四ツ谷駅前で、日本共産党街宣車が安倍政権を糾弾する演説をやっていた。通勤途上であり、かつ毎度の事なので立ち止まる人はいないし、内容そのものもたいしたものではない。
 
もっとも、短いフレーズを繰り返すことで、通りすがりの人に一種の印象操作を行おうという姿勢には見習うべきものがある。曰く、
「安倍政権の暴走」、「憲法改悪」、「戦争が簡単に出来るようになる」
などなど。
 
そして、
憲法解釈の変更で集団的自衛権行使を容認」
「日本に直接関係ない紛争にわたしたちが巻き込まれる」
という刷り込みを狙っているらしい。
 
これは共産党の「商売」の手口なので、とやかく評する必要もない。ただ、ひとつだけ感心したフレーズがあった。
 
憲法とは国家権力を縛るものです。国民を縛るものではありません」
 
共産党だから共産主義階級闘争論の流れで、国家権力と国民とを対立する存在だと言いたいようである。
 
中世~近世の欧州絶対王権国家ならいざ知らず、現代の民主主義国家に於いて「憲法」なるものは、国家の方針もしくは“どうあるべきか”という理念を示し、また国家の統治機構とその構成員のための“運用ルール”でもある。従って実情にそぐなわなければ、改正するのは当たり前の話。
 
民主党が「憲法解釈の変更はナチスの手口」云々とナチスをダシにして反対しているが、政権担当時代に独裁形態のひとつである「民主集中制」へと政治を変えようとした民主党がどの口で言っているのか。だいたい国家権力がその気になれば、憲法解釈の変更とか憲法改正とかのまどろっこしい手は使わず、非常事態宣言で憲法そのものを停止してしまうに決まっている。
 
もっとも今日なるほどと感心したのは、共産党の言うように憲法が国家権力を縛るものであって国民を縛るものではないのなら、昨年来より最高裁判例を出して国会と現政権が民法改正した「婚外子の相続格差廃止」も、国家権力が憲法をダシに国民を縛ったものではないか、と思ったからである。
 
我が国において「国家権力」は立法、行政、司法の三権に分かれて運用されている。そのひとつである最高裁(司法)が法の下の平等」を保障した憲法に違反するという判断をし、立法と行政がたった一例の判例で拙速に民法改正した。
 
つまり国家権力の一員である裁判官(司法)が国民的コンセンサスを得ないまま憲法解釈をほしいままにし、国会と政府が「憲法違反」を口実に民法を改変して国民を縛る…というのは、まさに共産党憲法とは国家権力を縛るもので、国民を縛るものではない」という論の真逆に位置するのではないだろうか。
 
憲法と各種法令は、国家機構が適切に運用されるべく、かつ国家の構成員たる国民が守るべきルールであるが、それ以上の「不磨の大典」ではない。
何故なら、『憲法』といっても所詮は「神」ならぬ「人間」がつくった、カラクリの一種であるから。
 
ラクリのひとつである「憲法」を墨守して国民生活が乱れた挙句に国民の生命財産も守れぬというのでは本末転倒、従って現状にそぐわぬものはスムーズに変更できるようにするべきである。
 
そして憲法と各種法令の解釈を司る最高裁(司法)の権力を制限できるよう、例えば過日の性別変更「父」と第三者精子を使って生まれた子供とを「親子(嫡出子)」とする最高裁決定のような、国民的感情から見て異常な判断に対しては「国民投票」が出来るようにする等の条項を入れるべきであろう。
 
以前にも書いたが、この性別変更「父」が昨年末の判決後にTVインタビューでこう言っていたのを思い出した。
「“おかしい”と思う事は、“おかしい”と声を上げるべきだ」
確かにその通り。
 
だからわたしたちも「憲法を絶対視するのは、おかしい」、「国民的コンセンサスを無視した判決は、おかしい」と声を上げようではないか。
 
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