♪ 春まだ浅き壬生の朝 「誠」一字に集いたる
益荒男(ますらお)たちの雄叫びが 燃えよ我が剣 我が命
作詞:結束信二
作曲:渡辺岳夫
文久3年(1863年)8月18日の政変で京都を追われた長州藩と尊皇攘夷派浪士が巻き返しのため計画したのが、京都御所に放火・混乱に乗じて佐幕派大名らを暗殺し、孝明天皇を長州に拉致するという大規模テロであった。
土方歳三の冷酷さを示す代表としてよく挙げられるのが、古高俊太郎を自白に追い込んだ過酷な拷問であろう。二階から逆さ吊りにし、足の甲へ五寸釘を打ち、足の裏の貫通した釘先に蝋燭を立てて火をつけるというSM的拷問を敢行した土方だが、現存する写真の風貌からは想像も出来ない手法である。
土方歳三への同時代の人の評価はまちまちだが、新撰組結成から鳥羽伏見の戦いまでの土方はまさに新撰組の「鬼副長」で、組織維持のために冷酷で徹したのだろう。しかし、総じて幕府瓦解から函館で戦死するまでの最後の一年間は人間が丸くなったようである。
「生質英才にて飽迄剛直なりしが、年の長ずるに従い温和にして人の帰する所赤子の母を慕うが如し」
これは最後まで戦った新撰組生き残りの中島登が書き残した一節。
明治維新は我が国が近代国家へ「急速に」脱皮するために不可欠な政変であった。また維新なかりせば、西欧列強と交わされた不平等条約の改正は大幅に遅れたであろうし、日本そのものが植民地化された可能性も高かった。
明治に入って福澤諭吉は、「立国は私なり、公にあらざるなり」という台詞から始まる『痩我慢(やせがまん)の説』で、旧幕臣ながら明治新政府の高官になった勝海舟と榎本武揚を痛烈に批判している。「痩我慢」とは即ち、武士の意気地という意味である。
「然るに爰に遺憾なるは、我日本國に於て、今を去ること二十餘年、王政維新の事起りて、其際不幸にも、此大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。
即ち徳川家の末路に、家臣の一部分が、早く大事の去るを悟り、敵に向て曾て抵抗を試みず、只管和を講じて、自から家を解きたるは、日本の經濟に於て一時の利益を成したりと雖も、數百千年養ひ得たる我日本武士の氣風を傷ふ(そこなう)たるの不利は、決して少々ならず。得を以て損を償ふに足らざるものと云ふ可し」
「立国の要素たる瘠我慢の士風をそこなうたるの責は免かるべからず…」
勝や榎本にはそれぞれの言い分があったろう。しかし福澤は維新後の彼らの行状の中に、「士道」衰退の兆しを見たのではなかろうか。
冒頭の時代劇『燃えよ剣』で貫かれているテーマは、「誠」。誠とは、私利私欲のない本当の心である。土方の関心事は私利私欲や栄達ではなく、「武士」とは、「男」とは如何にあるべきか…という点だった。「勤皇の志士」は多いが、生き残って維新後に栄達の末、醜聞を残した者もまた多数いる。
現代に於いても、「保守」を標榜しながら行動・思想はまるで亡国左翼そのものの輩や、己の利権だけでなく後援会関係や献金支援者の利権で特亜などの他国を利する議員らが掃いて捨てるほどいる。科学は進歩しても、人間の道徳は逆に退化しているとしか思えない状況を呈しているのだ。
私は土方歳三を尊敬する。
♪ 京都(みやこ)の風にふと向けば 吹雪と花の乱れ飛ぶ
明日は屍(かばね)を晒すとも 燃えよ我が剣 わが命
※ 本エントリーは初出:平成20年6月4日イザ!ブログのエントリー(既に消滅)を修正加筆したのもです。
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