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「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」
(1866年(慶応2年)4月26日、英国ハモンド外務次官からパークス駐日公使宛て文書より)
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先月、「第41回 呉竹会・アジアフォーラム」が開催されたので、久しぶりに参加させていただいた。「呉竹会」は明治・大正・昭和の三代にわたり活躍した愛国結社「玄洋社」の衣鉢を継ぐ団体である。
会長の頭山興助氏の挨拶は時局問題の核心を衝いた鋭いものであった。また講師として演台に立ったのが西村真吾衆院議員、何年ぶりかで拝聴する西村氏の至誠溢れる語りはいまだ健在であった。
西村氏曰く、明治維新期から大東亜戦争の終結までの間と、それ以降現在までの日本の歴史・社会は決して断絶しているものではない事、それは維新直後の明治天皇が発せられた詔勅と、昭和21年1月に昭和天皇が発せられた詔書を比べ見れば分かるという事。この指摘は以前から聞き及んでいたが、改めて認識を強くした。
なるほど、「戦前」と「戦後」は決して対立するものではない。社会情勢は言うに及ばず、著しい変化を遂げた経済もまた、「戦前」と「戦後」に断絶しているものではない。それは起点を「明治維新」とし、この百五十年ほどの流れとして捉えてみれば、経済諸指標は一貫して上昇している事でも明らかである。「1945年」というのは例えて言えば、氷河期における「間氷期」程度のイベントと言ってもよい。
『日本国憲法』なるものの本質とは、何か。それは降伏した日本を統治する連合国進駐軍による、『占領基本法』なのである。前文や各条文に盛り込まれている聞き心地の良さそうな台詞回しは、本質を隠蔽するための小道具に過ぎない。
そして進駐軍原案・制定の「日本国憲法」を、あたかも日本人自身が考え、制定したと伝説化し、それをメディアや教育などのあらゆる機会を通じて信じ込ませようとする勢力が蠢動していたのが、この60数年の流れと言えよう。
●実はそのやり方は、既に幕末維新の頃にイギリスが考え実行したものである。我が国はこの百数十年で2回、外国勢力による内政干渉と国体の改変を蒙っている。最初はイギリスによる「明治維新」、次はアメリカ主導の「GHQ」による体制改造である。
冒頭の言葉は1866年(慶応2年)4月26日、英国ハモンド外務次官からパークス駐日公使に宛てて送られた文書の中の一節で、イギリス政府のクラレンドン外相からパークス駐日公使へ送られた訓令の付属文書。「Private Letter (半公信)」と呼ばれ、公使館員の人事問題や外交問題に関する非公式な見解などの、公式報告書には記載できない問題を記した、訓令や公式報告書を補う重要な外交文書である。
「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」
19世紀に世界各地を植民地支配したイギリスの狡猾さは、相手を見て「容易に支配できない」と見るや様々な手段で既存政府を揺さぶるか、または影響力を行使できる勢力が政権の座に就くよう画策した事によく表れている。もっとも表向き、イギリス議会は他国への露骨な内政干渉を問題視する傾向にあったので、イギリス政府としても露骨な干渉は出来ない。幕末の日本への軍事的示威行動が数回程度だった事がそれを証している。
しかし駐日公使パークス、書記官ミットフォードや通訳のアーネスト・メーソン・サトウ、そして長崎に居を構えた貿易商グラバーらが行なった工作は、まさにイギリスの国益のための「内政干渉」であった。1866年、「ジャパン・タイムス」に掲載された匿名の「英国策論」なる論文は、イギリスの対日政策を示したものとして当時の日本の各層に認識されていたが、その著者はアーネスト・サトウ本人であり、また体制変革の時期は「1868年1月」と記されていた。
狡猾なイギリス外交に翻弄されたのは徳川幕府だけでなかった。薩摩、長州、土佐の倒幕勢力でさえイギリスの手駒として使われたのが、「明治維新」の実態なのである。そして「明治維新」という政権の交代と変革は、“諸外国の介入を防いで”あくまでも日本人が自らの意思と行動だけで成し遂げたが如くに喧伝され、また後世に教え込まれてきた(唯一、そのイギリスの思惑を読み切って行動したのが勝海舟で、内戦の大規模化を防いだ功績は計り知れない)。
「いうまでもないことだが、つねに最大限の注意と慎重さをもって行動し、いかなる党派にたいしても不公平な印象をあたえないよう、その言動を慎むことが大切である」
「イギリス政府は、この国の統一と安定の回復を切望しているが、同時にいかなる制度上の変革も、日本人自身の手でなしとげられるべきである」
(1867年(慶応3年)11月28日付、パークス公使からスタンレー外相あて報告書より)
故・江藤淳氏が『閉ざされた言語空間』で指摘したように、六十数年後の今日まで後を引く言論統制、歴史評価の歪曲、教育制度の改変、そして「日本国憲法」…あくまでも日本人が主体となって行なわれたような印象操作がなされたのである。
この手法は現在でも使われている。
かつての日米貿易摩擦、バブルとその崩壊によって経済敗戦を喫した我が国は、米国(東部エスタブリッシュメント、欧米金融資本)の意向に従い“自らの意思で”行政改革、規制緩和等々の施策を行ってきた。
それは湾岸戦争時の海部内閣、宮沢内閣から現在に至るまでの一連の経済政策、経済財政諮問会議での議論と、米国が毎年日本政府に提出している規制改革要望書(日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書)を時系列で比較分析すれば、一目瞭然と言えよう。
我が国は(欧米資本)に都合の良いシステムとなるよう“構造改革”を順調に進められてきた。平たく云えば「欧米勢力に搾取され続けられる」国へと、変質させられて来たのである。それも「日本人自らの意志」として。
幸か不幸か、日本国民は高い順応性を発揮してそれを消化しようとしてきた。さすがに「TPP」交渉はそうすんなりとはいっていないが、“戦前と戦後は違う、日本人は自らの意志で体制変革してここまで来た”という錯誤の原因である「日本国憲法」なるものの正体を正しく認識し、これを改変もしくは打破しない限り、構造改革やTPP交渉の同類が繰り返し我が国に覆いかかるのは必定である。
憲法解釈の変更などという小手先の事で、いつまでもお茶を濁せる筈はない。
まず「憲法改正」、これを不断に議論し、近々に実行することが求められている。
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