賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

【今月の銘言】玄洋社憲則

 
明治10年9月24日、鹿児島市の城山において英傑・西郷隆盛が自刃し、日本最後の内戦・西南の役が終わった。その二年後の明治12年暮れ、主亡き西郷隆盛邸の門を叩く一人の若者がいた。
 
「西郷先生に会いたい」と言う若者を家人は訝しんだが、若者曰く、
 
西郷隆盛死すとも、その精神は生きている。私は西郷先生の精神に会いに来たのです」。
 
この若者こそ、福岡で玄洋社立上げに参画する頭山満である。
 
明治11年(1878年)秋、全国的な自由民権運動の高まりの中で、福岡においても新しい政治結社『向陽社』が結成された。そのメンバーは、頭山満箱田六輔平岡浩太郎進藤喜平太らで、翌明治12年暮れに結社は改名する。
 
その名は玄洋社。結社の基本精神たる憲則(社則)が下記の三か条である。
 
第一条 皇室ヲ敬戴ス可シ
第二条 本國ヲ愛重ス可シ
第三条 人民ノ権利ヲ固守ス可シ
 
憲則の意味するところは、我が国の根本たる御皇室への尊崇と国権の興隆、その国権の基礎を成すのは民権の確立であり、国権と民権は車の両輪の如きものであるという認識であった。「玄洋社」は復古的ナショナリズムからではなく、自由民権運動の流れの中で結成されたことを憲則はよく表している。
 
さらに頭山ら玄洋社社員の中には、西郷隆盛の精神が脈々と流れていた。西郷の唱えた征韓論は、その根底に日本、朝鮮、支那の連合で西洋列強に対抗するという興亜精神があった。それは勝海舟の発想に繋がっている。玄洋社のアジア観の根底にもその精神が流れていた。
 
ちなみに敬天愛人は西郷の座右の銘だが、頭山も好んで揮毫した言葉である。
 
西南の役当時、「玄洋社」創立メンバーのうち、頭山満箱田六輔進藤喜平太ら前原一誠の「萩の乱」に連座して獄中にあった。のちに玄洋社初代社長となる平岡浩太郎だけが西郷軍に参加し、宮崎・可愛嶽の戦いで政府軍に捕縛された。
 
出獄後、『向陽社』に参加した平岡は、
「財源なくして天下国家を論じても空論にすぎない」
と同志に説き、自ら事業経営に乗り出す。
 
各種事業の試行錯誤の末、軌道に乗ったのが福岡・筑豊に於ける炭鉱経営で、在野団体だった玄洋社が軍資金不足に陥らなかったのは平岡の経営の才能に負うところ大である。中国革命の父孫文の活動資金にも充てられ、また頭山満も同じく筑豊炭鉱によって活動資金を調達していた。
 
この平岡と交流があったのが筑豊の炭鉱事業家・麻生太吉。平岡が衆議院議員を務めていた明治31年には、当時九州鉄道取締役だった麻生と交わした書簡が現存している。この麻生太吉の曾孫が、元総理大臣にして現・安倍政権の副首相兼財務大臣である麻生太郎である。
 
玄洋社は日本の右翼の源流とも称され、戦後GHQがマッカーサー最高司令官名で出した「超国家主義団体に対する解散命令」で禁止団体に指定、解散させられ、現在も正当な歴史的評価がなされているとは、到底言い難い。
 
これはGHQによる「ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム」が現在まで生きている影響で、過去の日本の行為を全て罪悪と決めつけ、当時から未来に至る日本人すべてに過去の歴史に対する罪悪感を浸透させる宣伝計画の一環であると言える。
 
玄洋社の解散命令に深く関わったのがGHQ付けのカナダ外交官だった日本史研究家E・H・ノーマンで、「福岡こそは日本の国家主義帝国主義のうちでも最も気違いじみた一派の精神的発祥地」と一方的に決めつけた。
 
このノーマン、アメリカに於けるレッド・パージで共産主義者の疑いをかけられ、1957年カイロで自殺する。冤罪説もあったが、近年の研究でやはりノーマンはソ連とつながりがあった事が明らかになっている。
 
このようにGHQ自体も歴史的評価を改めなければならないし、更にいまだGHQに封印されたままの玄洋社を辿れば、我が国近代史の真実がより一層明らかになる事は間違いない。
 
… … … … … … … … … … … … … … … … … …
ブログランキングに登録しています。
応援いただければ、下記アドレスをクイックお願い致します。
         ↓
… … … … … … … … … … … … … … … … … …