賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

今月の銘言:広田弘毅『物来順応』

 
昭和23年12月23日、当時の皇太子殿下(つまり今上陛下)の御誕生日に当てつけるように、所謂“A級戦犯”7人の死刑が執行された。
 
唯一の文官であった広田弘毅元首相・外相は明治11年(1878年)福岡市生まれ。昭和11年(1936年)3月から翌年1月まで首相の座にあった。
 
その広田の座右の銘『物来順応』。出典は江戸時代後期の学者・佐藤一斎「言志四録」の内、言志晩録に収録されている『剣の極意』という随想からである。
 
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剣の極意
 剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、これを動かすのには自然のままに動き、わだかまりなく実に広く万事万物にかたよることなく公平な公明正大であることである。
これを静にするには、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する(物来順応)。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。
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広田は東京裁判では一切弁明せず、当初は弁護士も断ったが、他に迷惑がかかると説得され渋々承知したほどである。獄中でも書を求められ、常に書いていたのがこの『物来順応』で、広田の精神はすでに俗世を離れていたのだろう。東京裁判の検察側が苦手とした相手が、この広田と東条英機であったのも頷ける話で、二人とも自己の命そのものには関心が無かった事が伺われる。
 
若い頃の広田は一高(現・東京大学)に入学のため上京早々、同郷の国士である玄洋社頭山満に会い、頭山の資金援助の下で東京帝大卒業まで、下宿生活を送っていた。
 
城山三郎の名著『落日燃ゆ』では、広田は玄洋社のメンバーではなかったように書かれているが、広田弘毅は紛れも無く玄洋社社員である。昭和8年に外相就任し、「協和外交」を標榜して対外関係の改善に努めたが、それは間違いなく玄洋社の方向の一つであった「大アジア主義」の流れを汲んでいる。
 
広田が世話になった頭山満が私淑した西郷南洲(隆盛)、彼も佐藤一斎の影響を受けた一人である。佐藤一斎の弟子が佐久間象山横井小楠など多数、佐久間象山門下や周辺からは、勝海舟吉田松陰坂本龍馬が出ている。
 
この佐藤一斎については、追い追い書いてゆきたい。
 
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