賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

【今月の銘言】拉致問題で見習いたい宮崎繁三郎少将の姿勢

 
●先の参院選、現在の都知事選において語られることの少なくなった問題、それは北朝鮮による拉致問題である。石原慎太郎氏が都知事の頃は東京都としての拉致問題への取り組みが明確だったが、最近は風化しつつあるような感を受ける。
 
北朝鮮の拉致は人権侵害の最たるものであり、また昨今の北朝鮮による弾道ミサイル発射は日本国民の生存権を脅かすものであるにも関わらず、本来人権問題に積極的な筈の日本のリベラル、左派はだんまりを決め込み、或いは日本国民に自制を求めるという頓珍漢な対応をとったりしている。
 
また現政権も、憲法上の制約もあろうが、主犯たる北朝鮮そのものへの圧力が緩いものとなっている。出先機関朝鮮総連へは効果的な圧力をかけられている時もあるが、朝鮮学校補助金の件では上記の情けない者共が自国民の被害を無視した反対圧力をかけているというのが現状である。
 
しかし私たち日本国民は、この拉致問題を風化させないのは勿論のこと、常に確とした基本姿勢、すなわち「決して見捨てない」という姿勢を持ち続けなければならないと信ずる。その一例として、第二次世界大戦の中でも悲惨な戦場として知られるビルマインパール作戦に於ける日本軍の一指揮官の行動を以下に取り上げたい。
 
● 酸鼻を極めたインパール作戦の中止が発令された昭和19年7月、作戦地域最北端のインド領コヒマで英印軍の攻勢を支えていた日本陸軍第31師団の宮崎支隊(歩兵第58聯隊基幹)が、軍命により撤退作戦の後衛を務めることになった。
 
歩兵第58聯隊は新潟県・越後高田(現・ 上越市 )編成の精鋭部隊、そして支隊長の宮崎繁三郎少将岐阜県出身)は戦上手で知られていたが、連日の激戦で当初の兵力3,000名が約1,000名に減少している。
 
 
イメージ 1
(宮崎少将、Wikipediaより)
 
第31師団の撤退は惨憺たるもので、連日の豪雨に加えて飢餓と疫病で将兵はバタバタと倒れ、「白骨街道」という異名がつく程であった。しかも最後尾の宮崎支隊に対して、英印軍は容赦ない追撃戦を仕掛けてきた。
 
自らが生き残ることが精一杯で他の友軍を顧みる余裕も無い撤退戦の中、宮崎少将が部下に出した指示は驚くべきものであった。
 
「後退途中に斃れている兵がまだ息があれば、必ず救う事。既に死亡している者は姓名、部隊名を控えて、特に敵の目につかぬよう必ず埋葬すること」
 
宮崎支隊そのものが全滅の危機に瀕している中での、困難な命令である。しかし宮崎少将はその理由をこう述べている。
 
「戦友は絶対に見捨てない、という考え方が大切なのだ。それは軍隊の根幹であるので、必ず実行してほしい。そのために我が部隊が全滅してもかまわない」
 
この命令に奮い立った宮崎支隊は他部隊の兵をも救助しつつ、脱出に成功したのである。
 
「戦友は絶対に見捨てない」、これは現在の北朝鮮による拉致問題にも共通している。拉致された人々や拉致被害者家族は私たちと同じ、日本列島に暮らしている同胞である。決して他人事ではないのだ。
 
私にも似たような経験があるが、一緒に生活している家族の一人がある日突然、いなくなってしまう…しかも「拉致」という人間として最低の行為で…
 
拉致された本人はもとより、残された家族の悲しみは如何ばかりであろうか。
 
こんな卑劣な行為に対する根本的な考え方とは、「決して見捨てない」という事。それは国家として、国民一人ひとりとして共通のものである。
 
そして、この根本を最も体現すべきは、日本政府の中枢たる安倍首相と全閣僚、及び与野党のまともな政治家全て(但し、まともなのがどれ程いるかどうかは別として)であらねばならないのだ。
 
●戦後、宮崎繁三郎氏は一切公職に就かず、東京・下北沢で瀬戸物屋を経営していたが、昭和40年8月に病没した。享年73歳。
 
亡くなる直前、見舞いに来たかつての部下・村田少佐に
「敵中突破にあたり分離した部隊を間違いなく掌握したか?」
と何度もうわ言で尋ねたという。リーダーとして一生涯をかけて、部下を見捨てないという信念を貫いたのであった。
 
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石原慎太郎が非推薦候補を応援したら石原伸晃が除名されるのですね。