賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

今月の唄「田原坂」と西南の役

 
♪ 雨は降る降る 人馬は濡れる
  越すに越されぬ 田原坂
 
 
イメージ 1
(熊本、田原坂公園にて)
 
征韓論に端を発する明治六年の政変後に西郷隆盛らが下野した後、日本各地で新政府に対する不平士族の反乱が続発した。
 
当時の朝鮮は大院君が実権を握り、鎖国攘夷路線を牽いていた。また宗主国の清への事大主義から、開国し西洋化する日本を軽侮してもいたのである。
 
元々征韓論は単純に朝鮮の開国を武力で強いるものではなかった。中心的存在である西郷隆盛の主張は、自らが開国を勧める遣韓使節として朝鮮に赴くというもの。正確には「遣韓論」で、それが決裂すれば開戦も止む無しというものだった。
 
西郷の主張の影には、当時大院君と手紙をやりとりしていた勝海舟の思想である「日本、シナ、朝鮮の三国提携で欧米列強のアジア植民地化に対抗する」思惑があったようである。その勝の思想も、元をただせば吉田松陰に行き着く。
 
しかし志破れて西郷らが下野すると、明治七年(1874年)江藤新平が佐賀で決起(佐賀の乱)、明治九年(1876)には熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で前原一誠萩の乱を起こす等、反乱事件が頻発した。彼らは西郷と薩摩士族の決起を促したが、西郷は彼らとは一線を画しており腰を上げなかった。
 
しかし明治十年(1877)、ついに鹿児島の「私学校」生徒らが新政府の挑発に乗るかたちで西郷を擁立して決起したのが西南の役である。
 
● 明治政府への詰問を出兵上京という形で決めた西郷隆盛桐野利秋ら「私学校党」は、明治十年二月十五日より熊本方面へ出発。熊本鎮台の政府軍が開城を拒否したため、二月二十二日、二十三日と薩軍約一万三千名は熊本城を強襲したものの攻略できず、薩軍は長囲策に転換して主力は福岡方面に北上した。
 
また二十二日、乃木希典少佐率いる小倉第十四聯隊は熊本城救援のため南下の途中、 熊本県植木町 で北上する薩軍村田新八隊と激突し敗走。明治天皇より親授された軍旗を奪われた(のちに明治帝崩御の際、乃木大将夫妻が殉死する一因となる)。
 
薩軍先遣隊は福岡との県境である 南関町 に進出しようとしたが、これ以上戦場を拡大して民に迷惑をかけまいとする西郷隆盛の愛民精神もあり、軍議によって 植木町 の要害田原坂で政府軍を迎撃することとなった。
 
政府軍は三月四日の第一次総攻撃以降、十七昼夜にわたり連日猛攻を繰り返したが、地の利を生かした薩軍の射撃と抜刀攻撃で大損害を蒙ったのである。
 
熊本県民謡田原坂の歌詞は凄惨な状況を伝えている。
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♪ 雨は降る降る 人馬は濡れる
  越すに越されぬ 田原坂
 
  右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかな 美少年
 
山に屍(しかばね) 川に血流る
肥薩の天地 秋さびし
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官軍側は3月4日、6日、7日の三次にわたる総攻撃で田原坂正面から攻撃したが、薩軍の陣地は堅固でまったく進展しなかった。そこで8日以降は田原坂西方の丘陵地を攻める作戦に出た。
 
そうはさせじと薩軍は抜刀斬り込み攻撃を開始し、元々が非武士階級の兵士主体で斬り合いの経験のない官軍を蹴散らす。そこで13日に官軍は、従軍していた元武士階級の警視庁巡査を選抜し、「警視庁抜刀隊」を創設して反撃。両軍は斬り合いで死傷者多数の凄絶な激戦を展開し、徐々に官軍側は田原坂横合いの台地を侵食していった。
 
そして3月20日払暁、官軍は薩軍の寝込みを襲う大規模の奇襲攻撃を仕掛け、田原坂横合いの七本柿木台場を攻略。これで恐慌状態に陥った薩軍は熊本城方面に敗走し、堅陣を誇った田原坂はあっけなく陥落したのである。
 
田原坂攻防戦における官軍戦死者は約千七百人。西南の役全体の官軍戦死者は約六千七百人なので、田原坂の十七昼夜だけで全体の1/4もの死者が出たことになる。薩軍戦死者の正確な数は不明だが、官軍と同数以上の戦死者が出たのは間違いないので、両軍合わせて三千~四千人の戦死者がこの狭い地帯で短期間に発生した激戦だったことがわかる。その殆どは十代から三十代の若者たちだった。
 
映画『ラスト・サムライ』が「西南の役」を題材にとっている事は知られているが、まさに「西南の役」は我が国近代の露払いであると同時に、明治維新の精神の終焉でもあった。
 
こののち新政府への反対運動は自由民権運動を軸として展開されるが、その流れの中で結成された玄洋社頭山満らの中には、西郷隆盛の精神が脈々と流れていた。ここが板垣退助ら民権諸団体と異なる処であった。
 
● ところで民謡『田原坂』は、鹿児島県では『豪傑節』という名称で唄われているそうである。「そうである」と云うのは、知人の鹿児島県人でも人によって言うことが違うので、よくわからないため。誰か教えて頂ければ幸いである。
 
また歌詞も民謡『田原坂』には無いものがある。その中でも筆者が好きな歌詞で今回は締め括りたい。
 
♪ 西郷隆盛 上野の山で
  花の吹雪に 濡れて立つ
 
イメージ 2
(東京・上野公園の西郷さん、筆者撮影)
 
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