賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

今月の詞:大田南畝「時鳥鳴つる方身初鰹春と夏との入相のかね」

 
筆者は大のコーヒー党だったが、先日エントリーでも記したように尿管結石を患ってから、飲むのを控えざるを得なくなってしまった。結石予防には尿中のシュウ酸を減らすことが大切で、飲物ではコーヒー、紅茶、緑茶、ココアの摂取を控えた方がいいと医者にアドバイスされたからである。
 
そのコーヒーについて、以前TV番組で「日本で最初にコーヒーを飲んだ人は誰?」というクイズをやっていた。織田信長とか豊臣秀吉とかの名が出たが、正解は「江戸時代、オランダ人が住んでいた長崎の出島に出入りしていた通訳や商人たち」というものだった。
 
もっとも「コーヒーの味を最初に記録した人」ならば、筆者が知っているのは江戸天明~化政期に活躍した文化人の「大田南畝(おおたなんぽ)」である。幕府の役人だった南畝は、1804年(文化元年)9月に通商を求めて長崎の出島に来航したロシアの使節・レザノフとの会見のため、長崎奉行所に赴任している。
 
長崎滞在中にオランダ船に招かれ、振る舞われたコーヒーを飲んだ感想を自身の随筆に書き残しているが、「焦げ臭くして味ふるに堪ず」と記しており、相当不味いと感じたようである。
 
この大田南畝、別号の「蜀山人」としても良く知られ、幕臣ながら文筆家・狂歌師として名を馳せた。江戸時代は「士農工商」の身分制度でガチガチだった…というのは誤った見解で、実際には町人や富農が特別の勲功や多額の献金士分(武士)に昇格したり、また俳諧、川柳、絵画文筆の世界では身分の垣根なく人々は自由に交流していた。
 
南畝も幕府の高級官僚でありながら数多くの町人文化人たちと交流し、特に浮世絵版元の蔦屋重三郎と各種文筆の出版で付合いがあったため、自身の浮世絵師に関する考証資料に「写楽斎」の項目を記載。これが現代も議論を呼んでいる東洲斎写楽についての基礎資料となっている。
 
そして1823516日(文政646日)没、享年75歳。当時は5060歳代で隠居する人が多かったものの、この人は息子が心身症で失職してしまったので隠居出来ず、結局亡くなる75歳まで働き続けた。現在、定年を70歳に延長とか年金受給を68歳に引き上げとか取り沙汰されているが、その先鞭をつけたような人である。
 
辞世は亡くなった季節柄、

「時鳥鳴つる方身初鰹 春と夏との入相のかね」

と伝わっているが、実はもうひとつ流布している有名な一首がある。
 

「今までは 人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」

 
こちらの方が狂歌師として一世を風靡した南畝らしいと思うのだが、我が身を振り返ってみて、果たして死ぬ前にこんな洒脱な辞世を詠めるだろうか?
 
生きるにしても死ぬにしても、やはり日々の心掛けが大切なようである。
 

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