(博多祇園山笠HPより)
昨日(12日)は15日早朝のクライマックス「追い山」に向けたリハーサルである「追い山ならし」が、そして今日13日は舁(か)き山笠を博多から福岡部へと舁き入れる「集団山見せ」が行なわれた。
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博多祇園山笠 博多部から福岡部へ “集団山見せ” 福岡県
(http://www.tnc.co.jp/news/articles/NID2018071302265)
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そして15日早朝4時59分にクライマックス「追い山」を迎える。そして「追い山」が終わった後、熱気の残る境内において最後の行事として「鎮めの能」が奉納され、行事の終了を神に報告するのである。
無論、「祇園山笠」祭りに限らず神社仏閣に所縁の日本の祭りは、昨今流行の官製祭りや企業協賛祭りと違い、その本質に奥ゆかしいものを秘めている。
●『博多祇園山笠』も明治維新後に廃止の危機があったという事は、意外と知られていない。明治31年(1898年)福岡県議会で、「野蛮な祭り」という県知事の発案により博多祇園山笠の廃止案が討議されたのである。
困った博多の人々が助力を求めたのが、このブログでも度々ご紹介している福岡「玄洋社」(当時の社長は進藤喜平太)で、玄洋社が発行していた新聞「九州日報」(現・西日本新聞)の主筆だった古島一雄(※)が廃止反対の論陣を張ったのである。
「県知事は山笠が裸で走りまわるので野蛮だと言っているが、着飾った人間が上等で、裸の人間が下等だという証明は何もない。現に鹿鳴館で着飾った紳士、淑女にどんなスキャンダルがあったか」
という論に、県知事以下の廃止派は沈黙。さらに揃いの水法被の着込みで上半身を露出しないという提案で廃止案は撤回され、現在に至っている。
当節流行りの価値観で歴史と伝統を葬り去ろうとする者は、何時の時代にもいるのである。
元福岡県人の筆者の身贔屓かも知れないが、この『博多祇園山笠』は祭りの情熱のなかに秩序と礼節がちりばめられた、日本の「祭り」の精華であると思うのだが如何であろうか。
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