「西郷隆盛死すとも、その精神は生きている。私は西郷先生の精神に会いに来たのです」。
西南戦争当時、「玄洋社」創立メンバーのうち、頭山満、箱田六輔、進藤喜平太らは前原一誠の「萩の乱」に連座して獄中にあった。のちに玄洋社初代社長となる平岡浩太郎だけが西郷軍に参加し、宮崎・可愛嶽の戦いで政府軍に捕縛される。
また西郷の唱えた征韓論は、その根底に「日本、朝鮮、支那の連合で西洋列強に対抗する」という策があった。それは勝海舟の発想に繋がっており、元をただせば吉田松陰に行き着く。玄洋社のアジア観の根底にもその精神が流れていた。
元々征韓論は単純に朝鮮の開国を武力で強いるものではなかった。中心的存在である西郷隆盛の主張は、自らが開国を勧める遣韓使節として朝鮮に赴くというもの。正確には「遣韓論」で、それが決裂すれば開戦も止む無しというものだった。
西郷の主張の影には、前述のように勝海舟の思想である「日本、支那、朝鮮の三国提携で欧米列強のアジア植民地化に対抗する」策があったようである。その勝は当時、大院君と手紙をやりとりしていた。勝の意を汲んだ西郷が派遣されたとしたら、大院君も鎖国攘夷路線を転換した可能性があった。
しかし『明治六年の政変』で志(こころざし)破れて西郷らが下野すると、明治七年(1874年)江藤新平が佐賀で決起(佐賀の乱)、明治九年(1876年)には熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で前原一誠が萩の乱を起こす等、反乱事件が頻発した。彼らは西郷と薩摩士族の決起を促したが、西郷は彼らとは一線を画しており腰を上げなかった。
しかし明治十年(1877年)、ついに鹿児島の「私学校」生徒らが新政府の挑発に乗るかたちで西郷を擁立して決起したのが「西南の役」である。
● 明治十年二月十四日、明治政府に対して出兵上京して詰問する策を決めた西郷隆盛と「私学校党」は私学校横の練兵場(現・独立行政法人 国立病院機構 鹿児島医療センター内)で閲兵式を行い、翌十五日に薩軍一番大隊が熊本方面へ出発した。
途中、熊本鎮台の政府軍が開城を拒否したため、二月二十二日、二十三日と薩軍約一万三千名は政府軍約四千名が立て籠もる熊本城を強襲するが、なにしろ熊本城は戦国の名将・加藤清正が築いた天下の名城である。簡単に攻略できなかった薩軍は長囲策に転換して主力は福岡方面に北上した。
同じ頃、熊本城救援のため福岡から南下の途中だった乃木希典少佐率いる小倉第十四聯隊は、熊本県植木町で北上する薩軍村田新八隊と激突し敗走。明治天皇より親授された軍旗を奪われた(のちに明治帝崩御の際、乃木大将夫妻が殉死する一因となる)。
政府軍は三月四日の第一次総攻撃以降、十七昼夜にわたり連日猛攻を繰り返したが、地の利を生かした薩軍の射撃と抜刀攻撃で大損害を蒙ったのである。
♪ 雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかな 美少年
山に屍(しかばね) 川に血流る
肥薩の天地 秋さびし
こののち新政府への反対運動は「自由民権運動」を軸として展開されるが、前述のようにその流れの中で結成された「玄洋社」の頭山満らの中には、西郷隆盛の精神が脈々と流れていた。ここが板垣退助ら民権諸団体と異なる処であった。
● ところで民謡『田原坂』は、鹿児島県では『豪傑節』という名称で唄われているそうである。「そうである」と云うのは、知人の鹿児島県人でも人によって言うことが違うので、よくわからないため。また歌詞も民謡『田原坂』には無いものがある。
♪ 西郷隆盛 上野の山で
花の吹雪に 濡れて立つ
(上野公園内の西郷像)
♪ 西郷隆盛 話せる男
国のためなら 死ねと言うた
(初出:平成20年3月5日、産経イザ!ブログ「賭人の独り言」より加筆)
… … … … … … … … … … … … … … … … … …
ブログランキングに登録しています。
応援いただければ、下記アドレスをクイックお願い致します。
↓
… … … … … … … … … … … … … … … … … …