賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

回想:東日本大震災直後の状況

 

12年前の3月11日午後、当時サラリーマンだった筆者は自社(当時の本社所在地は千代田区、JR四ツ谷駅近く)内であの大地震に遭遇した。顧客先から帰社して30分後の出来事だった。

 

実を言うと地震の約1時間前には打ち合わせが終わっていた。JR新橋駅付近にいたので喫茶店で時間を潰すか(つまり少々サボるか)と思ったのだが、何となく気が進まなかったので会社に戻ったのである。地震直後に鉄道は停止したので、それは正解だった。

 

揺れは突然来た。3Fフロア内のみんなが机の下に隠れたようだったが、横揺れよりも激しい縦揺れに驚いた。フロア中にデスクや書庫の書類やいろいろなモノが散乱して手の付けられない有様。

 

初動の揺れが弱くなったので階段を下って外に出て自社ビルを眺めると、まだ小刻みに揺れているではないか。近くの高いビルも似たような感じである。

 

1Fの玄関フロアに多くの社員が集まってきた。当時の社長(現会長)も来た。元の直属の上司だったので気安く挨拶したが、社長は泰然自若の様子だったのでこちらも落ち着いた。

 

社内のTVをつけると、各局のニュースで被害状況が五月雨式に伝わってくる。携帯が繋がらない。メールも直ぐは駄目。仙台の東北支店と連絡取れない。

大阪支店にTEL、しかし電話に出た担当者は大地震の発生すら知らなかった!

 

30分くらい経ってから、震災後初めての安否確認メールが。一番乗りはなんと博多・中洲の懇意にしているスナックのママから、TVで知ったとの事。ちょっと気が休まった。自宅に携帯が繋がったのは3時間後だった。

 

数時間たって外出先から辛うじて帰社出来た人たちから話を聞けた。社用車運転中だったA君によると、上下の激しい縦揺れで車が路上からハネ上げられたような感覚だった由。取り敢えず無事故を祝す。

 

東北方面の取引先や自社関係とは連絡つかず、かといって帰ろうにも交通機関が全部ストップと来ている。JR四ツ谷駅がシャッターを下ろして乗降客をシャットアウトしたので、みんな困っている様子だ。怒号も飛んでいた。

 

社内のTVが東北各地の津波映像を流している。これは尋常ではないという緊迫感がひしひしと伝わってくる。

 

会社の人たちの半ばは社宅のある千葉方面など自宅に徒歩で帰るという。何人かが社用車で混雑している一般道を強行突破し帰ろうとしたが、あまりの渋滞で引き返してきた。

 

筆者はオール徒歩で帰宅する根性も無く、結局その日は社内泊。今振りかえると避難場所になっていた上智大学で過ごした方がよかったかなとも思う。そこには寝袋や毛布、食べ物もあったから。

 

翌朝6時ごろ営団地下鉄小田急線がやっと復旧したので、途中余震で度々一時停車しながらも7時半過ぎに帰宅できた。

 

以前に阪神淡路大震災の経験者から「真っ先にガソリン給油」と聞いていたので近所のGSに行くと、なんと延々20~30台くらいの給油待ち行列が出来ているではないか。その間にも福島第一原電の緊迫した状況が流れている。

 

そして翌週以降にあの大震災の本当の怖さと後始末の厄介さを身をもって味わうこととなるのだが、神ならぬ身なれば2011年3月11~12日の段階では知る由もなかった。

 

続きの話はいずれ述べたい(筆者が関わった福1対策関連、被災者仮設住宅の利権、放射性物質除染利権、震災がれき処理利権関連など、サラリーマンを辞めてフリーになったとはいえネット上に出していいものかどうか未だ判断出来ないヤバい件が多いので)

 

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