賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

松下村塾と竹島開拓考

 
2月22日の「竹島の日」に合わせて、政府は島根県主催の式典に松本洋平内閣府政務官を派遣するという。本来ならば政府主催とすべき式典でもあるので、それはごく当たり前の話に過ぎない。騒ぐ方がおかしいのである。
 
○さて、その竹島であるが、今年のNHK大河ドラマで描かれている吉田松陰松下村塾関係者が「竹島」開拓計画に関わっていた事はあまり知られていない。確認されている資料では、安政5年(1858219日付の松陰から桂小五郎への書簡で「竹島」開拓が提案されている。
 
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「天下無事ならば幕府の一利、事あらば遠略の下手はわが藩よりは朝鮮満洲に臨むに若(し)くはなし。朝鮮満洲に臨まんとならば竹島は第一の足溜(あしだまり)なり。遠く思い近く謀るに、これ今日の一奇策とおぼえ候」
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しかしその議論は唐突に始まったわけではなく、嘉永6年(1853)に松陰は北方探検家の松浦武四郎と会っていることが判っているので、おそらく松浦から蝦夷地情勢と共に「竹島」など日本海方面の情勢についても教唆を得ていたのであろう。
 
従って安政5年の段階では、松下村塾内でかなり煮詰まった議論が展開されていたと想像できる。高杉晋作竹島」開拓計画に熱心だったようで、安政5年(1858)4月13日、松陰宛て書簡に竹島について触れている。そこから抜粋すると、
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肥後ナト之ウワサ無之様子甚怪焉、竹島論不待秋良氏
再拝謹白
十三日
松陰先生 御案下      晋作拝
 
(肥後などの風聞がないようですが大変怪しいです。竹島論(竹島の開拓許可を幕府から取り付ける件)については秋良氏(秋良敦之助)の意見を待つことはできないでしょう。)
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但し、当時「竹島」と称されていたのは現在の鬱陵島(うつりょうとう)である。そして「松島」と称されていたのが、現在韓国が不法占拠している竹島である。
 
○この辺りの混乱は現代の識者をも惑わしており、例えば歴史小説家の故・司馬遼太郎氏もその作品花神の中で、竹島についてこう書いている。
 
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「 ~幕末、海防が時勢の大きな課題になるや、この島の領有を明確にすることがやかましい問題になり、土佐藩岩崎弥太郎がここへ探険に出かけたこともある。
 この蔵六の時期は、岩崎の探険よりずっと前のことである。但し蔵六が先覚的に言い出したのではなく、蔵六と同時代人で長府藩(長州藩支藩)の侍医であった興膳昌蔵が先唱者だったといって言い。興膳は京都の人だが、シーボルトについて蘭方医学をおさめ、長府藩の侍医になった。彼の家はかつては長崎で代々貿易商を営んでいたため、東シナ海日本海の事情に明るく、竹島のことも家系伝説としてふるくからつたわっていた。
竹島を堂々たる日本領にせねばならぬ」
というのは興膳の持説で、吉田松陰もこの説をきいて大いに賛同したことがある。
 
後年松陰の門人の高杉晋作が、
 -奇兵隊をもって占領しよう。
といっていたが、藩内の動乱のためにそれどころで無くなり、さらに興膳昌蔵自身も、あるつまらぬ事件にまきこまれて暗殺されてしまった。蔵六は興膳とはべつに江戸において竹島という日本海の孤島の存在を知った。
 
 -これは長州藩領にしたほうがよいのではないか。
 
とおもい、桂にそれをすすめたのである。
 幸い、桂も松陰からその問題を聞いていた。蔵六は講武所でうつした日本地図を広げ、竹島の所在を示し、その島について彼が調べたところをすべて話した。 ~(新潮文庫花神()より)
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司馬氏はこの一節の前段で、
 
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「~ この島は、朝鮮でいう欝陵島とよくまちがわれるが、そうではない。この島は島のかたちをなす東島と西島を本体とし、その付近の岩礁をふくめて「竹島」と称される。~」
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とわざわざ注記しているが、
 
・当時『竹島』と呼ばれていた島 = 現在の「鬱陵島
・当時『松島』と呼ばれていた島 = 現在の「竹島
 
を踏まえたうえで、大村益次郎村田蔵六)、吉田松陰高杉晋作らが現在の竹島を目指したが如き事を書いてしまっている。また、
 
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「~後年松陰の門人の高杉晋作が、
 -奇兵隊をもって占領しよう。
といっていたが、藩内の動乱のためにそれどころでなくなり~」
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この一節も史実的な裏付けは何も無い。晋作が「竹島」に言及しているのは、現存する資料では前記書簡のみであるからだ。
 
○もっとも、松蔭や晋作が「松島」つまり現在の竹島を知らなかった訳ではない。松蔭の安政5711日付、桂小五郎宛て書状の別紙にこうある。
 
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竹島・大坂島・松島合せて世に是れを竹島と云、廿五里に流れ居候。竹島計り十八里有之、三島共人家無之候。大坂島に大神宮の小祀有之、出雲地より海路百二十里計。産物蛇魚類、良材多く有之、開墾致候上は良田美地も出来可申。此島蝦夷の例を以て開墾被仰付、下より願出航海仕候もの可有之候。」
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吉田松陰竹島開拓論は、イギリスが清国を屈服させたアヘン戦争が大きく影響している。そして当時、李氏朝鮮領ながら無人政策がとられていた竹島(鬱陵島)や現在の竹島を「大陸侵出」の足がかりにせんと企図したものであった。
 
松蔭の安政2424日付、実兄の杉梅太郎宛て書状が松蔭の意図を知る手掛かりとなる。
 
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「~国力を養い、取易き朝鮮・満州支那を切り随へ、交易にて魯に失ふ所は又土地にて鮮満に償ふべし~」
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そして松陰の大陸侵出論は松下村塾の中で議論され、桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作ら門下生に受け継がれた。松蔭没後の万延元年(1860)77日、桂小五郎村田蔵六の連名による『竹島開墾の建言書』が幕府に提出されている。
 
結果的にこの建言書は不許可となったが、高杉晋作桂小五郎、そして三吉慎蔵ら長州藩関係者が坂本龍馬に「竹島」情報を伝えたのであろう。龍馬と海援隊による竹島開拓構想へとつながってゆくのである。
 
(つづく)
 
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