賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

今月の唄:間宮林蔵の樺太探検と『韃靼海峡』

 
筆者の知り合いの中野区在住・K氏は、生まれも育ちも樺太(サハリン)である。そして昭和20年、当時中学生だった氏は8月20日のソ連軍真岡不法侵攻で抑留され、北海道に引揚げることが出来たのはその2年後であったという。
 
我が国がサンフランシスコ講和条約によって領有権を放棄した地域は、台湾新南群島及び西沙群島、得撫(うるっぷ)島以北の北千島、そして南樺太である。
 
いずれも領有は放棄したものの、我が国をはじめとする条約締結各国は、台湾を中華民国(および中華人民共和国)が、北千島、南樺太をロシア(ソ連)が領有することを承認した訳ではない。
 
台湾については中華民国が実効支配しているが、国際法上は「空白地」もしくは米国の暫定占領地域である(台湾問題は本来権利を主張する立場にない二つの政権=中華人民共和国中華民国が、台湾に対する権利を主張している事が問題)。
 
そして南樺太得撫(うるっぷ)島以北の北千島も国際法上は「空白地」である。したがって我が国はロシアが実効支配しているに過ぎないとの見解から、便宜的にユジノサハリンスク(旧・豊原市)に総領事館を置いているのである。
 
そして中国(中華民国)はサンフランシスコ講和会議に不参加、ソ連は条約に署名しておらず、ロシアは現在でも「ヤルタ協定」を根拠に居座っている状態である(日本政府は再三、ヤルタ秘密協定の拘束を受けない旨を表明している)。
 
● その樺太は江戸時代より多くの日本人が心血を注いで来た地であった。松前藩が陣屋を置き、後に幕府の直轄支配となり、ロシアの南下に対する押さえとして主に東北諸藩が樺太警備で出兵した。
 
当時、樺太北部は世界地図の上で謎の地域となっていた。この樺太が「島」か「半島」か、という議論が19世紀前後からヨーロッパ、中国、日本で発生しており、「半島」説が定説となりつつあった。そこで幕府は間宮林蔵、松田伝十郎らを樺太に派遣して現地確認を試みた。
 
そして文化5年(1808年)、彼らは海峡最狭部に達して樺太が島であることを確認する。翌文化6年に間宮林蔵樺太最北端に到達、さらに単身海峡を渡って黒竜江下流地域を探検したのである。宗谷の日本側番所に林蔵が帰着したのが9月末、厳しい旅だったことを示すようにボロボロの姿での帰還だったという。
 
当時この地域に住む民族は「タタール(Татарлар、 Tatarlar)」と呼ばれ、その中国名称は「韃靼」。間宮林蔵が著した報告書も、題名が『東韃地方紀行』となっている。
 
後にこの海峡はタタール海峡間宮海峡と呼ばれ、現在に至っている。
間宮林蔵の探検は世界の地理学界の定説を覆す大発見であり、一大快挙だったのである。
 
今月の唄は、この間宮林蔵の冒険心、困難に立ち向かう姿を力強く歌い上げている『韃靼海峡』日本クラウン㈱、作詩:麻こよみ、作曲:杉本眞人、編曲:竜崎孝路唄うは演歌界の海の男"鳥羽一郎さんである。
 
 
イメージ 1
 
♪ 男が心に 決めたら やるだけ
  超えてゆきたい 韃靼海峡
 
来る12月のプーチン来日に伴い、『北方領土』である国後、択捉、歯舞、色丹の南千島四島返還に話題が集中している。
 
しかしソ連による北海道分割を阻んだ北千島や樺太における我が帝国陸海軍の奮戦と多くの犠牲に思いを致し、さらに江戸時代の間宮林蔵ら多くの探検家の活躍を偲ぶ縁(よすが)として、この唄をお薦めする次第である。
 
ちなみに北海道札幌市の北海道神宮境内に、末社の「開拓神社」が鎮座している。ここに祀られている祭神は伊能忠敬最上徳内近藤重蔵ら北海道開拓の功労者37柱で、樺太探検の間宮林蔵、松田伝十郎も祀られている。
 
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