賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

占守島の激戦~帝国陸軍最後の勝利

 
 
イメージ 1
タミヤ1/35九十七式中戦車)
 
●靖國神社境内の「遊就館」に安置されている旧陸軍の九十七式中戦車は、昭和19年サイパン島で玉砕した戦車第九聯隊の所属車両である。聯隊生き残りの方々がご苦労されて、日本帰還・靖國神社奉納にまで漕ぎ着けた、玉砕戦の物言わぬ貴重な証人である。
 
現在ではきれいに再塗装されて展示されているが、筆者が中学生の頃(40数年前)は帰還直後だったので、塗装が剥げた車体に残る大小の弾痕が戦場の生々しさを物語っており、強い衝撃を受けた事を記憶している。
 
この九十七式中戦車が最後に活躍した戦場は、なんと終戦直後の北千島・占守島であった。昭和20818日、突如侵攻してきたソ連軍を蹂躙し、壊滅手前まで追い込んだ旧帝国陸軍・戦車第十一聯隊の所属戦車群である。
 
帝国陸軍最後の勝利とも云われる占守島の戦いは、大命により武装解除を進めていた日本軍守備隊に対して、突如ソ連軍が艦砲射撃の支援のもと夜間に奇襲上陸を開始した事から生起した、我が領土防衛戦である。
 
 終戦後のソ連軍不法侵攻
 
占守島防衛戦については歴史教科書に記述されていないが、すでに多くの日本人の知るところとなっている。
 
終戦時の北千島には、第五方面軍(札幌)の隷下部隊である第九十一師団が幌筵島に司令部を置き、総兵力2万3千名。そのうち占守島の守備についたのは歩兵第七十三旅団の約8千名で、重軽火砲約200門を擁していた。
 
第九十一師団は世界戦史に残るキスカ島撤収作戦に成功した部隊を中心に、ノモンハンガダルカナルの生き残りが配属されており、士気は極めて高かった。さらに満州から転用された精鋭・戦車第十一聯隊(中戦車39両、軽戦車25両)が配備されていた。
 
 
イメージ 2
(九十五式軽戦車、筆者撮影)
 
昭和20815日、終戦詔勅が下り、翌16大本営から「一切の戦闘行動を停止す。但し、止むを得ない自衛行動を妨げず。その完全徹底の時期を18日16時とする」旨の命令が届いたので、九十一師団長堤中将も戦闘行動の中止を指示。占守島守備隊も師団参謀立会いで武装解除および復員準備を開始していた。
 
15日を境に米軍機の空襲は中止されていたが、17日夕方、濃霧に包まれた占守島を国籍不明機(ソ連軍機)が爆撃した。守備隊は何かの手違いだろう程度の認識であったが、17日深夜から対岸のソ連領パトロカ岬より砲撃が始まり、18日午前2時にはソ連艦艇の支援射撃の下、ソ連軍部隊が北部の竹田浜に強襲上陸を開始したのである。
 
上陸正面を守備する独立歩兵第282大隊(東京編成)は濃霧で状況が不明である事と旅団司令部からの命令が無く、大隊長の村上少佐(熊本県出身)は対応に苦慮したが、深夜に砲撃しながら来る軍使はいないという判断から部隊に応戦を命じた。もともと水際殲滅を方針に猛訓練を重ねていた成果はすぐに現れ、ソ連軍は大混乱に陥った。
 
第五方面軍(札幌)司令官の樋口季一郎中将は九十一師団長宛に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出し、師団は射撃可能な各砲兵に上陸地点のソ連軍への射撃を命じた。同時に濃霧の隙間をついて、陸海軍混成の航空部隊8機がソ連艦艇への攻撃のため飛び立ったのである。
 
その結果、撃沈、擱座した艦艇は14隻以上、戦車揚陸艇ほか多数の上陸用舟艇も破壊され、さらに指揮官坐乗の舟艇も撃沈されたソ連軍は無統制状態に陥ったが、何しろ約2万の大軍である。正面の村上大隊は600名程度の手薄な兵力で、個々の拠点陣地を迂回すれば浸透可能だったため、ソ連軍は千名以上の死傷者を出したものの後続部隊が次々に上陸し、内陸部に侵攻を開始した。
 
 池田戦車隊の奮戦
 
この村上大隊の危機に駆けつけたのが戦車第十一聯隊(通称『士魂部隊』)である。『士魂部隊』とは、漢数字の『十一』を組み合わせると『士』になることに由来する。聯隊は武装解除中だったので準備の出来た車両から出撃せざるを得ず、途中の合流地で全車両の集結を待った。
 
聯隊長の池田末男大佐( 愛知県豊橋市 出身)は豪放磊落かつ温和な性格の人で、部下の信望を集めていた。終戦後に部下を死地に投じなければならない大佐の胸中は、如何ばかりであったろうか。濃霧の中を集合した全隊員に訓示した内容は文献によって若干違うが、おおむね下記のようなものであった。
 
「諸士、ついに起つときが来た。諸士はこの危機に当たり、決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。白虎隊たらんとする者は手を挙げよ」
 
すると霧がさっと薄れてゆき、大佐は目を見張った。全員が挙手していたのである。午前5時、白鉢巻を締めて戦車に搭乗した池田大佐は、「上陸ソ連軍を海に叩き落とすまで奮闘せよ」と命じ、村上大隊の主陣地である四嶺山に進出したソ連軍を蹴散らした。
 
眼下に見下ろす竹田浜には、上陸したソ連軍が動揺している様がはっきりと確認できる。この状況を見て取った池田聯隊長は、歩兵部隊の追及を待っていては戦機を逃すと判断、「聯隊はこれより敵中に突撃せんとす。祖国の弥栄と平和を祈る」と司令部に打電し、戦車のみで突入を命じたのである。
 
たちまちソ連軍は混乱に陥り崩壊の危機に瀕した。しかし独ソ戦で鍛えた対戦車火器による反撃で聯隊の戦車も次々に炎上する。やがて竹下少佐率いる歩兵大隊が砲兵の支援の下に駆けつけ、ソ連軍は多数の死者を残して海岸に撤退した。突破されかけていた戦線を膠着させた戦車第十一聯隊の功績は大きい。しかし聯隊も27両が撃破され、池田聯隊長も戦死したのである。
 
堤師団長は、海岸に押し込められたソ連軍に対し一挙に攻勢をかけて殲滅すべく、師団主力を幌筵島から占守島に集中した。しかし第五方面軍からの、停戦と自衛戦闘への移行命令が届き、ソ連軍に停戦の軍使を派遣した。ところがソ連軍はこの軍使を射殺するという挙に出たため、結局停戦となったのは8月21日であった。
 
 守備隊奮戦の功績
 
23日にはソ連軍の監視下で武装解除が行われたが、守備隊将兵は「なぜ勝った方が、負けた連中に武装解除されるのか」と悔しがったという。この後、第九十一師団の将兵は、ソ連に日本本土帰還と騙されて逆にシベリアに強制連行され、多くの人々が非業の死を遂げたのである。
 
この戦闘における日本側死傷者は約700名、対するソ連軍の死傷者は1,5003,000名と幅があるが、日本側の圧勝である。ソ連政府機関誌「イズヴェスチャ」は「占守島の戦いは、大陸における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8月18日はソ連人民の悲しみの日である」と述べている。
 
侵攻ソ連軍は巷間伝えられているような寄せ集めではなく、主力の第101狙撃師団はベルリン攻略戦に参加した歴戦の部隊であったが、奇襲上陸をもってしても日本陸軍に勝利できなかった訳である。
 
現代の視点からみると、占守島南樺太に於ける我が軍の奮戦によって、北海道が分割占領される危機を脱したと云える。朝鮮半島のように分断され、ソ連の傀儡政権が誕生するという悪夢を回避できた功績は大であると評価しなければならないだろう。
 
但し占守島に限ってみれば、第五方面軍の停戦命令が遅く届くか、または第九十一師団上層部がそれを握り潰して上陸ソ連軍を殲滅していれば、その後のソ連軍による千島列島の接収は大幅に遅れた筈である。
 
従って日本固有の領土である北方四島は米軍占領下に入り、そのまま講和条約後に北海道付属の島嶼として確定される訳であるから、今日の北方領土問題は発生しなかった公算が高いのである。今となってはどうしようもないが、残念なことであった。
 
占守島における激戦の最中、島内にあった日魯漁業(現・ニチロ)の缶詰工場に勤務していた約四百人の女子工員たちは、第九十一師団の柳岡参謀長らの判断で独航船二十数隻に分乗し、高射砲の援護射撃のもと北海道に脱出した。満州で見られたようなソ連軍による婦女凌辱から守ったのである。激烈な戦場の中での日本人として誇るべきエピソードである。
 
 ソ連軍侵攻の意図とヤルタ、カイロ会談の再確認を
 
何故、ソ連は8月15日以降に北千島侵攻を開始したのであろうか。
その原因はヤルタ会談にある。
 
ヤルタで行われた米大統領ルーズベルトソ連スターリン、英国のチャーチル三者会談に於いて、ソ連の対日参戦の見返りとして、満州樺太、千島、そして朝鮮半島は三十八度線以北の日本軍の武装解除ソ連軍が担当し占領行政を行う旨の、ヤルタ秘密協定が存在していた。
 
ところが、八月十六日の占領行政命令第一号には、千島列島が入っていなかった。激怒したスターリントルーマンと交渉したものの埒が明かず、業を煮やして終戦後の千島侵攻作戦を発令したのである。8月18日に占守島を攻撃したのも、その理由による。
 
ヤルタ協定に関しては、政府は従来から一貫して日本がその内容に拘束される事は無い旨を主張してきた。
 
国会に於ける質疑応答の中で一番判りやすいと思われるのは、新党大地」の鈴木宗男衆議院議員(当時)が第164回国会に於いて、ヤルタ協定に関する質問主意書」を平成十八年二月八日提出、同二月十七日の内閣の答弁書である。参考までに全文を掲載する。
 

… … … … … … … … … … … … … … … … ……

平成十八年二月八日提出
質問第五八号
提出者  鈴木宗男

 
一 平成十八年二月一日の鹿取克章外務報道官は、「我が国がそもそも当事者ではないヤルタ協定が、あたかも我が国に対して拘束力を持つかのような主張は我が国として受け入れていません。」と述べているが、日本政府はヤルタ協定の内容をいつ承知したか。
 
二 日本政府は、ヤルタ協定の当事国である米国、英国、ソ連に対して、ヤルタ協定が日本に対する拘束力を持たないという立場を、いつ、どのような形で伝達したか。米国、英国、ソ連は、日本政府の立場を認めたか。
 
三 現時点において、英国はヤルタ協定の日本に対する拘束力を持たないという立場に立っているか。立っているとすれば、それは日英間のどのような合意によって担保されているか。
 
四 ソ連並びにその法的継承国であるロシアは、ヤルタ協定は日本を拘束するとの立場に立っていると日本政府は認識しているか。これに対して日本政府はどのような論拠で反論を行ってきたか。
 右質問する。

… … … … … … … … … … … … … … … … ……

 
平成十八年二月十七日受領答弁第五八号
  内閣衆質一六四第五八号
平成十八年二月十七日
 
       衆議院議長 河野洋平 殿
衆議院議員鈴木宗男君提出ヤルタ協定に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

衆議院議員鈴木宗男君提出ヤルタ協定に関する質問に対する答弁書
 
一について
 御指摘の「ヤルタ協定」については、千九百四十六年二月十一日に発表され、政府としてその内容を承知するに至った。
 
二から四までについて
御指摘の「ヤルタ協定」は、当時の連合国の首脳者の間で戦後の処理方針を述べたものであり、関係連合国の間で領土問題の最終的処理につき決定したものではない。また、我が国は、御指摘の「ヤルタ協定」には参加しておらず、いかなる意味においてもこれに拘束されることはない。
 
この我が国の認識については、アメリカ合衆国(以下「米国」という。)、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(以下「英国」という。)並びにソビエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連邦」という。)及びこれを承継したロシア連邦の各政府に対して、累次にわたって伝達してきているが、いつ、どのような形で初めて伝達したかについて確認することは困難である。
 
米国政府は、御指摘の「ヤルタ協定」について、単にその当事国の当時の首脳者が共通の目標を陳述した文書に過ぎないものであり、その当事国による何らの最終的決定をなすものでなく、また、領土移転のいかなる法律的効果を持つものでないという見解を表明している。英国政府の見解は、英国政府との関係もあり、お答えを差し控えたいが、右に述べた我が国の認識を否定するものではない。

… … … … … … … … … … … … … … … … ……

 
●以上の立場に沿って我が国は、南千島の「北方四島」を我が国固有の領土であると一貫して主張し続けている。現状ではソ連邦を継承したロシアによって不法占拠されているので、例えあと何年、何十年かかろうとも、ロシアおよび国際社会に主張し、返還交渉を継続すべきである。
 
個人的には“奪還”への布石を打つべきと考えるが(こう思っている方は結構いるはず)、我が国は特ア3国やロシアなどと違ってまともな道義国家なのであるから、そうもいかないだろう。
 
ヤルタ協定については近年アメリカ自身が「歴史上の愚挙」と評価し始めたので(ブッシュ大統領(当時)の「リガ演説」など)、極東方面についても再検証が必要である。さらに再確認したいのはサンフランシスコ講和条約によって領有権を放棄した、南樺太得撫(うるっぷ)島以北の北千島、そして台湾である。
 
いずれも領有は放棄したが、ロシア(ソ連)、中華民国(および中華人民共和国)が領有することを承認した訳ではない。南樺太得撫(うるっぷ)島以北の北千島についてはロシアが実効支配しているとの見解から、便宜的にユジノサハリンスク総領事館を置いているに過ぎないのである。
 
実は樺太こそが、江戸時代より多くの日本人が心血を注いで来た地である。北方四島の返還だけでも厄介な現状では、極めて難しい問題であることは重々承知しているが、将来ロシアと平和友好条約を締結するに当たって留意しておきたい場所である。
 
また台湾については、サンフランシスコ講和条約第二条b項に基づく「独自の認定を行う立場にない」と見解と共に、日中共同声明第三項に記された「中国の立場を十分理解し尊重する」(これをどう解釈するか)という二通りの見解が存在している。
 
中共の主張では、台湾領有の根拠を「カイロ会談」に求めているが、いわゆる“カイロ宣言Cairo Conference)”なるものは、プレスリリース程度のもので、英米両国には公文書として存在しておらず、当然中共国府側も無理を承知で主張しているのである。
 
台湾はもともと米軍の指示により国民党軍が接収、日本軍を武装解除しただけの話である。台湾独立に絡むので、これは別の機会に譲りたい。
 
※参考資料ほか
・札幌護国神社(筆者取材)
靖國神社遊就館( 〃 )
・相良俊輔()、「流氷の海」光人社NF文庫
池上 司 ()、「八月十五日の開戦」角川文庫
魯漁業株式会社編「日魯漁業経営史 -1- 」水産社(昭和4612月)
 

… … … … … … … … … … … … … … … … ……

ブログランキングに登録しています。エントリーを書く励みにもなりますので、応援いただければ、下記アドレスをクイックお願い致します。

… … … … … … … … … … … … … … … … ……