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【硫黄島】栗林中将のマネジメント考

 
13日の硫黄島エントリーに関連するが、困難な地下陣地の構築以上に栗林中将を悩ませたのが、“水際で米軍を撃退すべし”と主張する幕僚らの不満分子や海軍中枢の存在と、第一線を指揮する40代,50代の高齢化した中堅指揮官たちだった。
 
昭和十九年ともなると人的資源も枯渇しており、硫黄島守備の小笠原兵団に配属される兵員も第二線級、30~40代の召集兵が多かった。一方、攻める米軍側の海兵隊は二十代前半の若者で構成される精鋭。装備の格差も大きく、通常の戦法ではあっという間に陥落するのは目に見えていた。
 
そこで考え出されたのが地下陣地による持久迎撃方針だった訳だが、戦争というものは兵の数や練度、士気だけではなく、指揮官の良否によって結果が大きく変わってくる。これは一般の企業でも同じである。
 
幹部の登用に関しては、プロシア(ドイツ)陸軍参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800-1891)が、参謀を登用する際の基準として以下のように述べている。
 
「参謀としては、優秀で怠惰な人物が最良である。優秀で勤勉な人物がそれに次ぐ。その次は無能で怠惰な人物。最悪なのは無能で勤勉な人物」
 
意外な順番だが、なぜ優秀で怠惰な人物が最良かというと、最小の努力で最良の成果を目指すからである。このタイプは上司に従順かつ確実に業務を遂行するので、一番使えるのである。
 
三番目と四番目は順序が逆のように思えるが、無能で勤勉な人物はなまじ意欲があるだけに、上司の指示を無視して自分の判断で行動しかねない危険がある。無能で怠惰な人物の方が使いやすいと云える。
 
栗林と意見を異にした師団参謀長と参謀、混成第二旅団長らは、意欲はあったものの米軍の戦法を分析して作戦を立案する能力に欠けていた(決して無能だった訳ではないが)。また中堅指揮官たちは、凄惨な戦闘を指導するには能力と意欲が不足していた。
 
そこで栗林中将は、大本営に掛け合って歩兵戦闘の権威だった千田少将、中根中佐、高石大佐を招聘し、上記の高級幹部を更迭。
しかも更迭幹部がそのまま本土に帰還すると他の者の士気が下がるので、島から出さずに一緒に玉砕させるという非情な手段を敢えて採ったのである。
 
高齢の大隊長、中隊長クラスも陸士53期、54期(当時20代半ば~後半)の少壮将校たちに切り替えたため、部隊の戦闘力が格段に上昇した。硫黄島守備隊の敢闘はこれらの人事によるところが大きい。
 
硫黄島守備隊の目的は「米軍の日本本土攻撃を一日でも遅らせる」ことにあった。全員玉砕が予想されるので、通常の組織に必要な「部隊、部下の教育」という観点は必要ない。従って栗林中将は「優秀で意欲ある」人材を求めたのだが、大本営も現役の精鋭部隊をレイテなどに送らず硫黄島に配属しておれば、米軍により一層の出血を強いることができたであろう。
 
● 栗林中将が困惑したもう一つの問題は、あくまでも水際撃退と飛行場死守を主張する海軍中枢であった。今となっては信じられない事だが、この大戦争を遂行する中央の指揮が陸海軍一元化されていなかった。企業でいえば5:5の比率のJV(共同企業体)を組んでいたようなものであった。
 
特に開戦前から戦場の担当範囲を陸軍は大陸方面、海軍は太平洋方面に分割し、相互に口出ししなかった事が事態を悪化させた。サイパンやマーシャル、ギルバート諸島は海軍の担当だったため開戦以来ろくな陣地構築もせず、米軍侵攻直前に陸軍部隊を泥縄的に配備したものの間に合わなかったのが島嶼玉砕戦の真相である。
 
日本海軍中枢は航空兵力が激減してもなお、陸軍側に飛行場建造や拡張工事を求め、かつ米軍の水際撃退を主張した。それがことごとく失敗しているのは戦史が示すとおりで、硫黄島に限らずペリリュー島、ビアク島、サイパン、沖縄とみな飛行場拡張に労力を費やし、本来の陣地構築にかける時間を無駄にしてしまった。しかも折角つくった飛行場は米軍に利用されてしまっている。
 
硫黄島においても海軍は同様の主張を繰り返し、陸軍を上回る資材を硫黄島に投入した。地下陣地による拠点持久防衛の基本構想を徹底させたい栗林中将は海軍中央と再三折衝を繰り返したが、最後には政治的妥協をせざるを得なかった。「海軍の資材の半分を陸軍に提供する代わりに、飛行場拡張と水際陣地の構築を陸軍も手伝う」というものである。
 
ところが実際には資材の半分も回って来ず、苦労して構築した水際陣地は米軍の艦砲射撃で上陸前にほとんど破壊されてしまった。この無駄な作業と擂鉢山海軍砲台の命令違反射撃が無ければ、硫黄島戦は長引いて米軍死傷者も史実を上回る数になった可能性が極めて高いだけに残念であった。
 
● 栗林中将が海軍相手に強権を発動できなかったのは、海軍の現地最高指揮官だった第二十七航空戦隊司令官・市丸利之助少将が衆目の一致する人格者であった事が大きい。
 
歌人として、またルーズベルト大統領宛て書簡で知られる市丸少将は、栗林ら陸軍側が海軍兵力を陸軍部隊に振り分ける提案をした際も「海軍には“死なばもろとも”という伝統があります。海軍としてまとまって死なせて下さい」と涙を流して訴えた。
 
しかも水際撃退、飛行場死守を強硬に主張したのは海軍中央と市丸少将の前任者で、市丸少将本人は陸軍に協力的だっただけに、さすがの栗林中将もそれ以上言えなかったのである。
 
卓越したリーダーシップとマネジメントを実行した栗林中将だが、この海軍側への対応は最後まで悔いが残ったようで、三月七日の秦彦三郎参謀次長、蓮沼侍従武官長宛て電文はその無念を物語っている。↓
 
「~5.海軍の兵員は陸軍の過半数なりしも其の陸上戦闘能力は全く信頼に足らざりしを以て陸戦隊の如きは解体の上陸軍兵力に振り向くるを可とす。尚本島に対し海軍の投入せし物量は陸軍よりはるかに多量なりしも之が戦力化は極めて不十分なりしのみならず戦闘上有害の施設すら実施する傾向ありしに鑑み陸軍に於いて干渉指導の要あり 之が為陸海軍の縄張的主義を一掃し両者を一元的ならしむるを根本問題とす~」
 
大東亜戦争の敗因は米軍の物量に押し切られたとする論説が多いが、日本側も適切なリーダーシップの発揮とマネジメントの徹底を実行すれば、これほどまでに悲惨な結末を迎えなかったのではないだろうか。
 
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