当ブログで筆者が香港、マカオなど広東地方(華南)にこだわっている理由の一つに、日本との歴史的な関わりがある。
特に清代末期の反清活動、孫文らによる中華民国成立に関わった福岡の玄洋社の活躍や、明治維新後の我が国金融界の発展に寄与した香港上海銀行(現HSBC)、またシナ事変から大東亜戦争にかけて華南地区に関わった様々な人物を調べると、興味深い事実や意外なつながりが出てきたりする。
例えば大反響を呼んだ映画『硫黄島からの手紙』の主人公・栗林忠道中将は大東亜戦争開戦時、支那派遣軍・第23軍の参謀長として広東に駐在していた(当時の階級は少将)。
第23軍の任務はシナ事変以来、国民党政府の対外工作の拠点となっていた英領香港の攻略であった。
昭和13年の広東作戦により香港は孤立化したものの、英領であったために、日本側の目を盗む闇物資の中継基地として「援蒋ルート」の一角<南支ルート>を担っていた。
軍司令官は今村均中将(のち大将)で昭和16年11月に異動、後任に酒井隆中将が赴任した。ちなみに今村均大将は後に「ラバウルの聖将」と呼ばれるようになる。
栗林忠道は昭和13年当時、陸軍省兵務局馬政課長の職にあったが、上司である兵務局長は今村均であった。栗林は今村を尊敬していたようで、彼の家族宛て書簡には「今村さん」と親しみを込めてよく出てくる。
その今村は開戦直前、広東を離れて第16軍司令官として蘭印作戦を指揮することになる。占領後にはオランダに弾圧されていたインドネシア独立運動の志士たちを解放し、現地人に敬愛される程の軍政を敷いたが、昭和17年11月に第八方面軍司令官としてニューブリテン島ラバウルに赴任。以後孤立したラバウルで終戦まで指揮をとった。
今村や栗林が広東、香港を離れたのはある意味幸運だったのかも知れない。何故なら戦後、香港占領後の残虐行為等の責任を負わされた酒井中将はシナ側の軍事法廷で戦犯として処刑されているからである。
第23軍参謀長としての栗林少将が従事したのは香港攻略だけではなく、軍管轄下の香港、華南地域に於ける対支情報戦、経済工作等であった。シナ側から戦犯の難癖をつけられる可能性もあった訳である。
またマカオはポルトガル領で中立地帯だったので、日・支・英の連絡機関が置かれ、ある時は敵対、またある時は日本と英(米)が手を握るという複雑怪奇な状況になっていた。これらに関しては2016年1月13日エントリーで述べたとおりである。
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(https://tafu1008.hatenablog.com/entry/14630925 )
栗林が尊敬していたもう一人の軍人は、同郷(長野県)の先輩でもあった永田鉄山少将(死後中将に昇進)である。陸軍きっての逸材と云われた永田少将は昭和10年の「相沢事件」で当時の陸軍皇道派・相沢三郎中佐に斬殺されるが、永田が生きていれば大東亜戦争は起こらなかっただろうとも云われている。
ちなみに、この永田と同郷で親交があったのが岩波茂雄。孫文やインド独立の志士、ラス・ビハリ・ボースを匿った「新宿中村屋」創業者・相馬愛蔵のアドバイスにより「岩波書店」を始めた人物である。
話を戻すと、最前線ラバウルに行った今村大将が生き残り、内地で留守近衛師団長をしていた栗林中将が硫黄島で玉砕したのも人生の不思議なのだろう。ラバウルは硫黄島以上に要塞化されていたが、今村大将はかつての部下であり後輩でもある栗林中将の戦死に、どんな感慨を持ったであろうか…
下は28年前、パプア・ニューギニアのラバウルへ戦跡慰霊訪問した際の写真。日本海軍の対空陣地で今も空を睨む20ミリ三連装機銃。
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