賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

神風特攻と意思決定プロセス考

 

年明けに靖国神社参拝の折、久しぶりに「遊就館」を見学した。下の写真はそこに展示されている特攻人間ロケット「桜花」のレプリカである。そろそろ桜の咲く季節になると、どうしてもこの「桜花」を思い出してしまう。

 

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Wikipediaより)

 

昭和20年3月21日、「桜花」特攻のために編成された「神雷部隊」が初出撃し、その後沖縄方面に対して「桜花」特攻は繰り返された。当初は「桜花」を人間ロケット兵器と認識していなかったアメリカ軍も4月に沖縄で無傷の「桜花」を鹵獲し調査、その性能と戦法に震撼したと云う。

 

かねてより述べているように我が国は大東亜戦争に敗戦したものの、諸外国から舐められず復興と経済発展を果たした。その蔭には、

 

「日本人を怒らせ過ぎ、追いつめ過ぎると、何をしでかすか判らないから怖い」

 

と世界中の人々が感じていた事も寄与している。その原因は大東亜戦争において、私たちの父祖と先輩方が善戦敢闘したためである。

 

特に『神風特別攻撃隊』や人間魚雷『回天』、『桜花』に代表される特攻は、「統率の外道」(大西瀧治郎海軍中将)ではあったが、フィリピンを皮切りに硫黄島、沖縄、太平洋の各海域でアメリカ軍、そして全世界を震え上がらせた。

 

「特攻」を企画立案したのは大西瀧治郎中将という事にされているが、実際には複数の陸海軍高官が関与・決定している。彼らが特攻立案・命令の責任をとったかと云うと、そうではなかった。関与した疑いのある人の中には、戦後に国会議員となった者もいる。そして大西中将の、全責任をとった自決によって、真実が隠蔽されている観がある。

 

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特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す

最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり

然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、

吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

 

次に一般青壮年に告ぐ

我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い

聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり

隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ

諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く

特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と

世界人類の和平の為 最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎

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また故・松林宗恵監督の東宝映画『連合艦隊では、第五航空艦隊司令長官・宇垣纏海軍中将(終戦直後に“特攻自決”)がこう語るシーンがある。

 

「私は毎日部下に「死んでこい」と命令している。これはもう、命令の限界を超えている。しかし戦争が続く限り、私は命令し続けるだろう。「死んでこい」と…」

 

戦後の特攻隊に関する記述は当初、陸海軍の高級指揮官・参謀らが上梓したものが多く、歳月の経過で当事者だった下士官兵と下級将校の証言・回想が主流となっている。ところが実施部隊の現場指揮官だった人々の証言は、極端に少ない。皆沈黙を守っているかのようにも見える。これらの人々は現代でいえば中間管理職に当たる。

 

最近思うのは、“志願”という建前で実際には生還否定の攻撃を命ぜられた若者たちの心情だけでなく、上層部からの命令で特攻隊を編成せざるを得なかった現場指揮官たちの苦悩である。

 

「お前のところから、特攻要員として2人出せ」

 

例えばこんな命令をあなたが受けたとしたら、どう対処するだろうか。拒否し続けるには、相当の説得力ある反論を陳述し続けなければならない。それは過酷な精神力が要求される。

 

最期まで自部隊から特攻要員を出すのを拒否した指揮官も少数ながら存在したが、軍隊は命令で動いている組織である。そして全ての組織は大なり小なり、上からの命令を中心に動いている。拒否し続けるのは非常に難しい。

 

これが「全員死ね」という命令なら、逆に納得し易い。ところが確実に死ぬ者を2人選択せよ…という命令には、真面目な中間管理職であればあるほど苦悩のどん底に叩き落されるのではないだろうか。

 

祖国を守るために特攻で亡くなった人々、そして送り出さざるを得なかった現場指揮官の人々の心情を考えると、反戦平和思想が主流になるのも宜なるかなと言わざるを得ない。

 

だからと言って現代の我々が大東亜戦争を「無謀な戦争」と決め付け、また特攻を「狂気の沙汰」と否定するのは、実は楽な作業である。それは歴史に対する傲慢な姿勢を伴っている。また祖国の危難に殉じた先輩方を簡単に否定するという事は、自分自身を否定しているのと同じことであると思う。

 

特攻とは先輩方の生命を賭した、後世の我々日本人への遺産であり、また宿題でもある。

 

作戦の企画立案と決定プロセスは現在に至っても明確ではなく、また命令過程もはっきりしていない。終戦後の文書焼却で失われた可能性もあるが、関係者の証言から考えると、そもそも責任の所在を最初から有耶無耶にしていたのではないかという疑いも残る。

 

現代はSNS時代、例えばトランプ前大統領のように各国の政治家が“つぶやき”を四六時中発信し、また例えば我が国では、かつての民主党政権時の原口総務大臣のように“つぶやき”を命令の代わりとして、部下の官僚がそれを受けていた。

 

だが、そこに明確な責任の所在というものが、果たして存在するのだろうか。私たちは「政策実行の可視化」などといった、もっともらしい言葉で目晦ましをさせられているのではないだろうか。

 

旧軍の特攻命令プロセスと大して変わりない政治の意思決定プロセスは、愚策でしかあるまい。

 

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