賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

暗殺、戦犯裁判…マカオと大東亜戦争

 
元旦のエントリーでご紹介した、「日本会議地方議員連盟・香港マカオ視察団」が執り行ったマカオでの慰霊式と史実について書いてみたい。以下は当初「日本会議」の機関誌『日本の息吹』に掲載して頂く予定だったのだが、日本会議さんの意向でボツになってしまったものである。
 
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昨年6月6日、神奈川県議会の松田良昭議員を団長とする「日本会議地方議員連盟・香港マカオ視察団」はマカオにて、昭和20年に暗殺された駐澳門マカオ)領事代理・福井保光氏の慰霊式、並びに昭和22年に戦犯として処刑された日本陸軍澳門特務機関長の澤栄作大佐と部下の山口久美少尉の慰霊式を執り行った。
 
この一般には知られていない、マカオを舞台とした史実について、紙面を借りて述べてみたい。
 
<日本領事館、陸海軍特務機関の開設>

昭和14年、日華事変の拡大に伴い、当時ポルトガル領だったマカオ澳門)に於いても中国特務機関系諸団体の抗日工作が盛んになっていた。事態を憂慮した外務省はマカオに駐在員を置くことを検討し、翌年には正式の領事館設置計画へと発展した。そして昭和16130日、在澳門日本領事館が開館し、福井保光氏京都市出身)が領事代理の任に当たる事となった。
 
同じ昭和16年の78日、日本陸軍澤栄作大佐(陸士27期)を澳門特務機関長に任じ、マカオにおける対中、対英(米)各種工作と情報収集を開始した。マカオの有力華僑は殆ど蒋介石重慶側シンパであり、また蒋介石直属の藍衣社(らんいしゃ)、CC団といった諜報工作機関が活動していた。特に藍衣社は親日派や日本人を標的としたテロも任務としており、澳門特務機関はカウンターテロ機関としての役割も担っていた。
 
当時の我が国の対外情報活動は、外務省と陸海軍の出先機関が連携協力して行われることも多かった。昭和15923日付、駐香港の岡崎総領事から松岡洋佑外相宛電信も、マカオにおける諸問題は我が軍事行動と密接に関係していると記しており、在外公館と特務機関とは表裏一体の関係を有していた。
 
この頃マカオには、三井物産や昭和通商等の商社が駐在員を置いていた。その中の「昭和通商」は、岩畔豪雄陸軍大佐らが発案し三井、三菱、大倉の各財閥が出資した日本陸軍の御用商社である。大東亜戦争勃発後も中立地帯だったマカオでは、その昭和通商と中国、イギリスが参画した「聯昌公司が貿易活動を行っていた。つまり交戦中の筈の日本、中国、イギリスが“呉越同舟”で共同の商社を立ち上げ、互いが損にならないようビジネスに精を出していた訳である。澳門特務機関も当然その活動の監督業務に関わっていたであろうことは、容易に想像できる。
 
また日本海軍も広州の東武官府駐在武官肥後市次大佐、海兵45期)がマカオに別館(出張所)を置き、系列中国人武装団体を活動させていた。最大の組織が「広東海防軍」で、総司令の甘志遠早稲田大学に留学した知日派の中国軍通信大佐だが、蒋介石の許可を得て日本侵攻後の香港に留まり日本海軍の中国人組織編成に協力、マカオと近郊の島を本拠地としたのである。この甘志遠と親しかったのが海軍武官府嘱託として香港、マカオ別館に勤務していた島岡吉郎で、後に明治大学野球部の名物監督として知られた人物である。
 
<福井領事代理の暗殺>

前述のように大戦中、ポルトガルは中立国だったため、マカオにはイギリスも領事館を置いており、日本軍の東南アジア全域制圧後も英米による対日工作が盛んであった。そして昭和19年末以降、ドイツの敗北が決定的な情勢となると、マカオに於いても英米中の策動による対日テロが激増した。昭和20417日付、大本営陸軍部の速報「最近ノ澳門情勢ニ就イテ」では、「~最近対日テロ頻発シ事態ハ逐次急迫化シツツアリ」とし、具体例を挙げて緊迫化する現地情勢を報告している。
 
こうした中で昭和2023日、福井領事代理暗殺事件が発生した。領事館前のバスコ・ダ・ガマ公園で朝のラジオ体操後に戻る途中、福井領事代理と朝比奈書記官が国籍不詳の兇漢複数に銃撃され両名負傷、近隣の医院に搬送されたが福井領事代理は死亡したのである。犯人は中国系とする文献もあるが、大本営陸軍部はイギリス人の嫌疑濃厚としており、現在に至るまで解決していない。
 
更に312日に、澳門特務機関員に対するポルトガル人警察官の発砲事件で1名死亡(氏名不詳)、マカオ政庁に厳重抗議するも、44日には海軍武官府職員2名が何者かに銃撃され1名死亡した(氏名不詳)。領事館、特務機関はマカオ政庁およびマカオ総督に犯人捜査を申し入れたものの、日本の敗勢により反日・親英米中の態度をあからさまにし始めたポルトガル側は冷淡であった。
 
そして815日の終戦を迎えると、中国系住民が9割以上を占めるマカオは対日戦勝ムードが充満、同時に日本人迫害の危機に陥った特務機関員、在留邦人は近郊の島に避難した。澤大佐ら特務機関の陸軍軍人は広州の捕虜収容所に自ら赴いたが、海軍武官府の島岡嘱託ほか海軍、在留邦人ら約40名は甘志遠の協力により武装ジャンクでマカオを脱出し、10月に長崎県福江島に辿りついた。その後の広東戦犯裁判の冤罪起訴多発や不当判決多数という無茶苦茶な状況から考えると、島岡氏らの脱出行は賢明だったと思われる。
 
<澤大佐、山口少尉の殉難>

戦後すぐに中国側が行ったのは、意外にも日本軍人「戦犯」の捜索ではなく、同じ中国人「漢奸」の摘発粛清だった。「漢奸」とは売国奴といった意味だが、単に対日協力者を指すのではなく、重慶側にとって好ましく思われない者、重慶側要人と確たる繋がりがない者も「漢奸」というレッテルで処断された。
 
例えば中華民国広州先遣軍の総司令官として日本軍の降伏受付・資材接収に当たった招桂章は、蔣介石の側近である軍統局の戴笠を後ろ盾にした人物だったが、終戦後に広東へ進駐してきた他の重慶側要人たちの機嫌を損ね、讒言されて「漢奸」として逮捕された。
 
このように判断基準の曖昧な中国側が管轄した広東戦犯裁判は19465月から開始されたが、最初から証拠なし、事実認定も不明なままの判決が続発し、起訴された171人中、一審でいきなり死刑判決が半数近い81人という惨状を呈した。流石に中国国防部も無茶苦茶だと判断したらしく、再審命令を出して裁判が一時中断した程である(結局、死刑判決は48人に減少)。
 
B級戦犯として起訴された澳門特務機関の澤大佐、山口憲兵少尉の容疑は、「中国汽船・西安号の攻撃と中国人殺害、また藍衣社幹部を逮捕・殺害した」というものだった。
 
前記の甘志遠の回想では、澳門特務機関とその部員は中国人から恐れられ、澤大佐も「殺人魔王」と呼ばれていたとある。しかし本当に無辜の中国人が逮捕殺害されたのであれば、当然戦犯の罪状に挙げられるべきだろうが(他の戦犯案件では「住民暴行、殺害」などの容疑が濫発されている)、実際には上記のように西安号と藍衣社の件しか取り上げられていない。「殺人魔王」云々も中国側によるレッテル貼りの可能性濃厚である。
 
その西安号の攻撃は1943年の出来事だが、澳門特務機関は武装組織ではないので、陸軍部隊の主導による通常の戦闘作戦であった可能性が高い。当然、中国汽船も唯の民間船ではなかった筈だから、敵性船舶拿捕なら違法行為ではない。また藍衣社は前述のようにテロも行う謀略機関である。従ってテロリストは戦時においても重犯罪者のため、逮捕処罰も戦争犯罪には当たらない。
 
しかもマカオポルトガルの主権下にあり、違法行為が実際のものであれば、本来ポルトガル当局が捜査起訴すべき事案である。現に前記福井領事代理殺害事件や澳門特務機関員殺害、海軍武官府職員殺害について、日本側は単独で実力行使せず(したくても出来ず)、ポルトガル側に犯人逮捕を要請している。もし日本側にも瑕疵があれば、中英側も捜査処罰をポルトガル官憲に要請するのが筋の筈である。
 
だがそんな筋論も、中国相手では通らないのが戦犯裁判の特質だった。
 
澤大佐は遺稿の中で「無茶な判決」と評している。判決は裏を返せば、中国側の「何がなんでも死刑に」という意志の表れでもある。澤大佐にどうしても死んでもらわねばならない中国側の事情とは、何だったのか。
 
<戦犯起訴の裏に>

澳門特務機関の上部組織は、香港、マカオを含む広東全域を担当戦域とする陸軍第二十三軍司令部である。特務機関設置時の司令官は、のちに「ラバウルの聖将」と呼ばれる今村均中将。参謀長は後年、硫黄島守備隊司令官として米軍を迎え撃った栗林忠道少将だった。第二十三軍には中国側との和平工作という非公式の活動があり、陸軍中野学校卒の情報将校が複数配属されていた。
 
彼らは第二十三軍担当地域にある広東特務機関、香港特務機関、澳門特務機関を拠点として、各種情報活動と和平工作を行っていた。終戦と同時に中野学校と情報活動の記録は殆ど焼却処分され、若干の記録と証言が残るだけだが、第二十三軍は重慶側とのコンタクトに成功しており、また蒋介石にも日本側の親書が届いていた事が判明している。
 
ところが大戦末期の重慶側は親米英派が実権を握っており、そんな中での日本側との単独和平交渉は、中国にとって米英に知られたくはない性質のものだった。また前述した「聯昌公司」の件にしても、戦争の当事者同士による共同事業という事案はおおっぴらに出来ない話であった。
 
斯かる特殊案件を了解しているのは当然上層部のみである。従って長年にわたり澳門特務機関長として各種工作に携わった澤大佐はもちろんのこと、終戦時の第二十三軍司令官だった田中久一中将へも、こじつけ同然の起訴理由を並べて死刑に処したのは、一種の口封じではないかと考えられるのである。
 
前記の甘志遠は「澤大佐は“殺人王と呼ばれていたが、それなりに正義感のある軍人だった」「私は澤大佐と親しくつき合うようになった」と回想している。また大佐が獄中で作った琵琶歌や漢詩、都々逸が遺されており、かなり魅力的な教養人だったようである。
 
・澤栄作大佐
明治26年生まれ、横浜市出身。昭和22625法務死(広州にて銃殺刑)、
享年54
 
・山口久美少尉
明治42年生まれ、佐賀県武雄市出身。昭和22625法務死(広州にて銃殺刑)、享年40
 
◎澤大佐の遺稿より
 
無茶な判決だとは思いながら覚悟を決めて
 
横車おすと知りつつ ニッコリ笑ひ
  回天偉業覆根底  男子今到復何説
  笑消流花橋畔露  心事皎々照八紘
 いのち投出す 男振り
 
  • 澤大佐の琵琶歌「戦犯の歌」より~
     
    心あるもの忘るなよ  戦敗れし其の陰に
無念の涙しのびつつ  祖国の方を伏拝み
国に殉ぜし戦犯を  国に殉ぜし戦犯を
 
マカオにて澤、山口両氏の慰霊式を挙行するに当たり、靖国神社 靖国偕行文庫様のご協力を頂きました。紙面を借りて御礼申し上げます)
 
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