暇人がゆく

香港、マカオ、台湾往来30年

マカオ『長崎街』:日葡交流の残照

 

先日の「アズレージョ」についてのエントリーが好評だったので、マカオの歴史ネタをもうひとつ。

 

(世界遺産「セナド広場」、以下筆者撮影)

 

大航海時代』、ポルトガルの探検家バスコ・ダ・ガマがインドへ到達したのが1499年の事。以来、ポルトガル人は南海貿易の拠点としてインド洋からマラッカ、ジャワへ進出し、1513年には広東に来航した。

 

1553年から、彼らは現在のマカオを拠点として対シナ貿易を展開し始める。多くのガイドブックにはポルトガル人のマカオ定住について、「明王朝による海賊(倭寇)討伐にポルトガル人が協力し、その功績を称えて明の皇帝が居住権を認めた」云々と書かれているが、これは誤りである。

 

ポルトガル人達は現地の役人に毎年賄賂を贈って居住を認めてもらい(これは当時の明朝においては法令違反)、やがて贈収賄が明朝中央政府に発覚しそうになったので、今度は明朝そのものに毎年500両を「地代」として納め、マカオ居住を認可してもらったのである(1572年)。

 

従って「海賊退治で居住権獲得」云々の話はまったくの虚構。贈収賄の挙句に居住権を得たという格好悪い事実を誤魔化そうと、後世のポルトガル人が創作した与太話にすぎない。

 

(当時のマカオの情景模型、マカオ海事博物館にて)

 

  • そんなポルトガルだが、マカオから東進して日本に到達したことで新たな貿易の旨みを享受するようになる。戦国時代の日本、各地に割拠した戦国大名たちは「南蛮貿易」で当時の最新兵器・鉄砲をはじめ、火薬、シナ産の絹織物、生糸、金(きん)などを争って買い求めた。

(火縄銃(種子島)展示、マカオ海事博物館にて)

 

その代価は石見銀山に代表される高品位の銀、そして多数の日本人「奴隷」だった。特に九州のキリシタン大名の中には、キリスト教への改宗を拒む領民を駆り集めて鉄砲や火薬の代金代わりに売り飛ばした者もいた。

 

当時のマカオには貿易関係者の日本人が相当数居住していたと推測される。それに加えて数多くの日本人男女が、人身売買と誘拐、甘言に釣られた等の理由による「奴隷」とされ、マカオに到達した。手足に鉄鎖を嵌められて、時に「性奴隷」として扱われ、マカオを経由し遠くはヨーロッパまで連行されていった。

 

元亀2年(1571年)には、マカオ~長崎の間に定期航路が設けられていた。ポルトガル船(“大黒船”と称された)はリスボンを出航すると、南アフリカ喜望峰~インド・ゴア~マラッカを経由してマカオに到着する。マカオから日本へは日明貿易の仲介業者として、少々のヨーロッパ産物の他にシナ物産を積んでゆくのである。その仲介マージン利益でマカオ市の財政は大いに潤った。

 

安土桃山時代の「南蛮屏風」に描かれた“大黒船”、マカオ海事博物館にて)

 

1580年、ポルトガルは隣国スペインに併合されてしまい、1640年に独立を回復するまで60年かかったが、その間にも多くのポルトガル人たちがインドやスマトラ、そしてマカオを拠点として活動していた。また相当数のポルトガル人が、マカオから日本へと移住する道を選んだのである。日本とマカオ間の貿易は豊臣秀吉キリシタン禁令によっても衰える事はなかった。

 

(世界遺産聖ドミニコ教会」、1582年設立)

 

関が原合戦に勝利した徳川家康は江戸に幕府を開くと、幕府の貿易許可状である「朱印状」を発行して貿易を進めた。慶長9年(1604年)から寛永12年(1635年)までの間、御朱印船」が東南アジア各地に渡航。記録ではその渡航先19箇所、出航回数延べ356回となっている。日本人の海外雄飛でタイやベトナムスマトラなどに「日本人町」が出来、発展したのもこの期間のことである。

 

  • もっとも常に平和裡な取引だった訳ではなく、流血事件も度々発生している。その代表的な例が、岡本大八事件前後の騒動である。

 

慶長14年(1609年)2月、肥前(長崎県)の大名・有馬晴信御朱印船の乗組員とポルトガル船「ノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号」(別名「マードレ・デ・デウス号」)の乗組員とが、寄航先のマカオの酒場で些細な事から乱闘となり、有馬側の船員数十名が殺害された上に積荷も奪われるという事件が発生した。もっともポルトガル側の記録では、日本人が市内で狼藉を働いたので処罰したという事になっている。

 

激怒した有馬晴信はその報復として、長崎に入港した「ノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号」に包囲攻撃を仕掛けた。ポルトガル側はマカオ騒動の原因が有馬側にあるとして幕府に日本人のマカオ渡航禁止を要請したのだが、幕府は日本の国家主権を示す意味から有馬氏に攻撃の許可を与え、三日間の攻防の末に「ノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号」は長崎港内で撃沈された。

 

このとき幕府の目付として立ち会ったのが徳川家康の側近・本多正純の与力である岡本大八だった。有馬に接待された岡本は「ノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号」撃沈の恩賞として、「家康が有馬氏の旧領(佐賀の鍋島氏が現有していた)を与えようと考えている」云々の虚偽を吹き込んで、有馬側から賄賂を受け取った。さらに幕府の「朱印状」まで偽造して有馬氏に提供した。

 

ところが岡本は単に私腹を肥やすのみで、更なる“恩賞運動資金”の提供を求める有様。業を煮やした有馬氏が直接、本多正純に問い質したことから事件が発覚し、岡本大八は死罪。有馬晴信も贈賄に加え、勝手に旧領回復を画策した咎で流罪となってしまった。

 

 

例えば有馬晴信の叔父に当るキリシタン大名大村純忠は長崎をイエズス会に「寄進」、つまり日本領土を割譲した。さらにキリスト教への改宗を領民に強制し、神社仏閣をことごとく破壊。長崎市内に神社仏閣が再建されるのは、徳川幕府が直轄領とした後のことである。

 

慶長14年(1609年)にキリスト教禁止令が出されると、棄教しない多くの日本人信徒が長崎からスペイン領マニラ、そしてマカオへ追放処分となった。やがて寛永16年(1639年)、三代将軍・徳川家光の発した対ポルトガル断交令、所謂鎖国令」によって、マカオ~長崎間の貿易は終焉を迎えた。この後に多くの日本人信徒がマカオへと逃れ、今に残る聖ポール天主堂跡などの建築に携わる事となる。

 

世界遺産聖ポール天主堂跡」)

 

香港~マカオ間のフェリーターミナルを出ると、そこはマカオの新口岸地区。新しい大型カジノ「海立方」やラスベガス・Sands社が経営する巨大カジノ「金沙(サンズ・カジノ)」がそびえ立ち、テーマパーク「澳門漁人碼頭」が賑わいを見せている。

 

その先にあるリオ・ホテル(利澳酒店)の近くに、「長崎街」という名称の通りがあるが、これはマカオの歴史に所縁のある都市の一つである日本・長崎を記念して、ポルトガル政府が中国へマカオを返還する前に命名した由。

 

 

ここは特に有名な店があるわけでもなく、ありきたりの観光ルートにはおそらく入っていない場所である。しかし歴史好きの方がもしマカオに来て自由散策の時間があるならば、歩いてみる事をお勧めする。

 

ポルトガル、日本、双方の貿易商たちの活気溢れる息遣いや、禁教令で日本を脱出したキリシタン達の望郷の想い、そして「奴隷」にされた日本人(特に多くの児童!)たちの慟哭・・・マカオには、近代以前の日本とヨーロッパとの交流に思いを馳せるに十分な歴史が眠っているのである。

 

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