13年前の東日本大震災の折り、被災地支援のためという大義名分は良しとしても先方に何の連絡もなく支援物資持参で乗り込んだ人が結構いた。
ある意味「善意」の押し売り的な行為で被災者側もせっかくの「善意」だから仕方なく受け取っていたが、後日のインタビューでは困惑した感じの方が多かったらしい。
一例を挙げると某社のM社長が支援物資(水)を届けに被災施設に乗り込んだものの、水は足りていると受け取りを断られたのに腹を立て、被災者に説教し謝罪させるといった一幕もあった。
M社長「こうやって支援に来ている人間の気持ちはどうなるですか!」
被災者「すいません・・」
こんな「善意」の押し売り的な行為の最たるものが「折り鶴」の束の送り付け。
被害を受けている他者に対して救援物資や寄付金を送るという物質的支援だけに止まらず、「被害者の心に寄り添う」「無事を祈る」という「善意」に基づいた精神的支援も人間として必要ではある。そして日本人の場合、それは「折り鶴を送る」という行為に代表されている。
しかしながら相手の意向も構わずに「善意」を一方的に送りつけるのは、日本国民の伝統芸能と化した観があるようだ。下の画像は「東日本大震災の際に送られてきたモノの中の不用品リスト」。
今回の能登地震に際し一般人の被災地向け支援の動向を見るに、流石に「折り鶴」とか「寄せ書き」とかのアイテムは見かけないので皆様さすがに学習されていると思うのだが、「何もしないよりマシ」とかの理由で小中学校やら福祉施設やらで「せめて折り鶴でも送ろう!」という考えをもつ教員や介護職員がいるとしても不思議ではない。
まあ、常識から外れた数を送りつけるのではなければ良いとは思うが被災直後の現時点で必要なのはそれではないので、どうしても送りたければ半年~1年後以降にするべきではなかろうか?
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