「天下の諤々 ( がくがく )は君が一撃に若かず」
明治19年(1886年)、当時世論を沸騰させていたのは、幕末期に締結された一連の不平等条約改正に関する政府の対応であった。改正のための会議は列国出席の上、明治19年から始まっていたが、国民には秘密で進められていた。
関税自主権の回復と治外法権の撤廃が主題だったが、伊藤博文内閣の井上馨外相がまとめた改正案は、外国人に関わる裁判の判事団は過半数の外国人判事を登用し、その一方で外国人居留区に限られていた居住と商取引の制限を撤廃するというもの。実質的に治外法権を全国化する恐れのある代物であった。
この改正案に疑問を呈したフランス人法律顧問ボアソナードの意見書がすっぱ抜かれ、その内容に激した在野の自由民権派が大同団結して上京し、猛烈な反対運動が繰り広げられたのである。頭山や来島ら玄洋社もその中に在った。
その結果、明治20年7月に井上外相は辞任を余儀なくされるが、事態はこれで収まった訳ではなかった。後継の黒田清隆内閣で条約改正を推進していた大隈重信外相の改正案も、現在の最高裁にあたる大審院の判事に外国人を登用するという井上案と大差ない、我が国にとって著しく不利な内容であった。
明治22年、とりあえず改正の実績を作ろうと画策する政府と大隈は着々と改正案上程作業を進める。世論は当然猛反発したが、悪いことに明治20年12月26日より「保安条例」が施行され、自由民権派を標的として皇居から3里(約12km)以内の立ち入り・居住禁止(事実上の東京所払い)、集会・結社も禁止という言論弾圧状況に置かれていた。
見かねた明治天皇が改正再考のための再閣議を要請したのだが、10月15日の閣議で黒田首相は改正断行を決定、反対派の伊藤博文が枢密院議長を抗議辞職するという事態に突入した。民間の反対各派は言論封殺されており、対策がとれず右往左往するばかりの状態となった。
上京して大隈外相の改正案への反対活動を続けていた来島恒喜は、自身にも保安条例による東京退去命令が出ていた事もあり、ここに至って言論による運動の限界を感じたのであろう。大隈外相爆殺を決意したのである。
10月19日、来島は東京・霞ヶ関の外務省前で、大隈の乗る馬車めがけて爆弾を投じた。爆音と煙の中に大隈が倒れるのを見届けた来島は、皇居に向かい一礼したあと短刀で首を刺しぬき自決。
大隈は一命を取り留めたが右足切断の重傷を負い、黒田内閣は総辞職に追い込まれた。来島の一撃は大隈の右足と共に条約改正案を吹っ飛ばしたのである。
●当時に酷似する現在の状況
8年前の「人権擁護法案」問題は、ネットを中心とする反対運動が盛り上がり阻止することが出来た。民主党政権下での「人権侵害救済法案」も、民主党政権が倒れたことで実現を免れた。しかし現在は「ヘイトスピーチ規制案」が話題に上り、「いわれない誹謗・中傷から個人を守る」とか云う名目で言論が封殺されようとしている。
同時進行で「外国人参政権」、「人権侵害救済法案」も再びその内実をオブラートで隠して準備が進められるだろう。マスコミは報道の独占という自らの既得権益を守るためなら、妥協も厭わない連中である。既に数年前の実績で明らかだ。
現在の我が国は結社・集会の自由、言論の自由が認められており、テロリズムという行為は意味を為さない。まして無差別テロの如きは論外である。しかし「ヘイトスピーチ規制案」で一般的な街宣活動だけでなく、ネットという言論までが封殺されてしまったら、在野の我々が自由な政治活動を続けることは絶望的である。
来島恒喜は最後の手段としてテロを選択したが、もちろん大隈には個人的な恨みは無かった。ただ他人の命を奪う以上、自らの命で責任を取る、それを実行したのである。その潔さが当時の世論の、来島の「義挙」に対する拍手喝采につながったと云える。
古今東西、政治に関わる者にとって「暗殺・謀殺」はつきもの。「政治は妥協の産物」と云うが、政治的対立が不可避となり妥協点も見出せない時、生命のやりとりで決着をつけるのは、政治に命を賭ける者にとって一つの流儀といえる。
とでも諭せというのだろうか。
今後、よく考えてゆかねばならないと思う。
(※初出:産経イザ!ブログ「賭人がゆく」(既に消滅)の同タイトルエントリーを加筆復元)
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