賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

今月の唄「ラバウル小唄」

 
ラバウル小唄』
♪ さらばラバウルよ 又来るまでは
  しばし別れの 涙がにじむ
  恋しなつかし あの島見れば
  椰子の葉蔭に 十字星
 
 
イメージ 1
パプアニューギニア・ニューブリテンラバウルのシンプソン湾での筆者)
 
俗にラバウル小唄』と呼ばれている歌は、カラオケなどでは“軍歌”カテゴリーに分類されたりしているが、元々が昭和十五年の『南洋航路』という歌謡曲である。
 
『南洋航路』
若杉雄三郎:作詞、島口駒夫:作曲、新田八郎:唄、昭和十五年
 
♪ 赤い夕陽が 波間に沈む
  果ては何処ぞ 水平線よ
  今日も遥々(はるばる)南洋航路
  男船乗り かもめ鳥
 
我が国は戦前、国際連盟の信託委任統治で内南洋(米領グアムを除くマリアナ諸島、トラック諸島、パラオ諸島)を領有していた。大正9年(1920)以来、南洋進出は国策でもあったのでパラオコロール島には南洋庁が置かれ、殖産興業を志す会社が次々と設立・進出していった。また沖縄県を中心とした多くの移民が入植していった。
 
日本郵船などの海運各社が南洋航路に進出、また大日本航空による赤道越え航空路の開拓など、戦前は南洋ブームが盛んであった。歌謡曲『南洋航路』もそんな世情を反映したヒット曲である。
 
● 戦前の我が国の対外進出方面は、大陸方面が主に安全保障上の面が強かったのに比べ、南洋方面は当初欧米諸国との利害の衝突が大陸ほどではなかった。米英蘭との開戦の主原因が対支関係にあったことからも窺い知れる。対米戦の直接原因を仏印進駐とする説も有力だが、対米開戦前夜の「南進論」興隆は大陸政策の手詰まりとソ連コミンテルンが日本各界に工作した所産であった。
 
陸海軍の国防分担取り決めにより内南洋の防衛は海軍の分担とされ、帝國海軍はトラック諸島を米海軍の真珠湾に比肩できる一大根拠地に仕立て上げた。
 
しかしながら明治40(1907)の『帝國國防方針』以来、日本海軍の基本戦略は一貫して対米漸次迎撃、そして日本近海にて艦隊決戦を行なうもので、トラック以南への進出は基本戦略から大きく外れたものと云わざるを得ない。奪取されて敵の根拠地になる可能性とその対応策への議論は、海軍には無かったのである。
 
対米開戦に当たって海軍が構想したのは、その根拠地たるトラックの防衛である。その南方に位置するニューブリテンラバウルは当時オーストラリアの信託委任統治領。トラック~ラバウル間の距離は約二千三百キロもあるが、海軍はトラック確保のためラバウル占領を計画した。
 
ラバウルは国力と軍事力の総合的な観点から決まる「攻勢終末点」の圏外にあり、昭和16年夏の段階では陸軍は派兵に反対していた。しかしながら海軍側の要望に引きずられる形で十一月、大本営は直轄兵団の「南海支隊」をラバウル攻略に投入する旨奏上するのである。
 
このラバウル占領と一大航空基地化こそが、日本の敗北の要因の一つとなる。すなわち海軍はラバウル防衛のために、その外郭要地であるニューギニアポートモレスビーガダルカナルやブーゲンビルが欲しくなり、ずるずると戦線を拡大してゆく。その結果、国力を弱める消耗戦に自ら陥る破目となったのである。
 
ラバウルを占領した「南海支隊」は四国・高知の歩兵144聯隊を基幹とする約五千名の独立部隊で、元々の任務は開戦早々に米領グアム島を攻略する事であった。グアムには昭和161210日に上陸し、たった2日で完全占領してしまう。
 
そして昭和17年1月22日深夜、攻略部隊はラバウルに上陸。豪州軍の抵抗は微弱で、翌23日には主要部を占領した。最終的に豪州軍約千名が降伏したのは2月6日であった。
 
「南海支隊」の編成に当たっては、大本営による「ぜひ土佐の歩兵を」という要望があったことが知られている。同じ高知の郷土部隊が大陸戦線で活躍しており、「坂本龍馬の流れを汲んで強い」という評判も一因だったようである。
 
この「南海支隊」はその後ポートモレスビー攻略作戦に投入されて、地獄の底を這いずり回るが如き悲惨な状況に追い込まれる事になる。
 
またソロモン諸島ではガダルカナルの攻防に代表される消耗戦が展開されたが、ニューギニア、ソロモンの両方面の作戦基地となったのがラバウルであった。
 
(つづく)
 
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