賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

もし二・二六事件がぐだぐだ続いていたら?

 

昭和11年(1936年)2月26日に発生した二・二六事件から88年目。時々、あのクーデターが数日間で鎮圧されず長期間続いていたら日本はどうなったであろうかと考えることがある。

 

クーデター初期は陸軍中枢幹部たちの意思がぐだぐだで決起青年将校たちに共感を覚える者も少なくなかった。また一般国民の間にも決起の理念を支持する人々が沢山いた。その前の「五・一五事件」の際に事件関係者の減刑嘆願が一大国民運動と化した程だから、陸軍内部がああでもないこうでもないと右往左往を続けていれば昭和維新が一大国民運動となっていた可能性もあるのではなかろうか。

 

事件の背後にあったのは、まず陸軍内部の「皇道派」と「統制派」間の争い、そして当時の日本本土における農村の疲弊と地方経済の停滞。特に凶作と相俟って国家予算の相当額を朝鮮と台湾の農業・諸産業振興に振り分けていたことが災いしていた。

 

左翼系の学者や論者は「大日本帝国による植民地朝鮮からの収奪」云々と昔から論じているが実際はあべこべで、特に朝鮮に金を使い過ぎた挙句に肝心の国内第一次産業がダメになり、大都市の繁栄の裏で農村の疲弊が酷くなったのが大日本帝国の現実だった。

 

その一方で満洲は新天地」と官民挙げて大陸ブームが起きていたが、その割には昭和一桁~10年代初期の満州への開拓移民数はそれほどでもなかったのが大日本帝国のよく判らない所で、日露戦争終結後から満州事変までの期間を無駄にしまくっていた。

 

当時のイギリスの識者が新聞紙上で「日本人は植民に向いていないのかも知れない」と論じていたと聞いたが、大戦後の南米やハワイではそこそこ成功しているのに近場では駄目だったのだから、むべなるかなと言わざるを得ない。

 

話を戻すと、青年将校たちは「国民の疲弊を陛下は判られているから自分たちの行動をきっとお認めになられる」と信じ込んでいたが、昭和帝は憲法遵守主義者であり、また軍の叛乱に対しては断固鎮圧すると最初から言明していたのだから、決起が「成功」することはどう考えても有り得なかった。

 

また仮に事件終結後の裁判で青年将校たちの言い分が一部認められるようなことがあったとしても、大戦後の農地改革や財閥解体などに匹敵するようなドラスティックな改革は昭和10年代ではとても望めなかっただろう。

 

そして残念だったのは、この事件の裁判だけでなく前に起きた「相沢事件」まで秘密裁判となったことだ。そのため広く国民に事件の一部始終や背景、特に陸軍内部の派閥抗争が隠蔽されてしまったのは、今となっては残念でならない。

 

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