最近、バレンタイン・ディのギフトにチョコレート+ブランド香水という組み合わせが流行っているらしい。なるほど、たしかに『ブルガリ』、『ゲラン』、『シャネル』等のブランド香水を愛用している日本人は多いから、アピール度も高いのかも知れない。
日本に於いて西洋の香水が普及したのは戦後からと思われている向きもあるようだが、実は歴史上の人物でも意外な人が使っていて驚くことがある。
幕末維新時は薩摩藩士として西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀ら藩首脳の手足となって働き、明治政府では陸軍少将として明治初期の帝国陸軍の基礎を創る。その後、征韓論に端を発する明治六年の政変で西郷隆盛らが下野した際は、西郷と行を共にし鹿児島へ帰郷。同じく辞職した有志の指導による青少年教育施設「私学校」の指導者の一人として、主に開墾事業を主導した。
そして明治十年(1877年)、鹿児島の「私学校」生徒らが新政府の挑発に乗るかたちで西郷を擁立して決起した「西南の役」に於いて、桐野が主将として活躍したのは皆様ご承知のとおりである。
「武骨者」のイメージが先行する桐野だが実は相当ハイカラな人物で、フランス製の香水を愛用し、軍服はオーダーメイドしたフランス製、金無垢の懐中時計など光り物が大好きだった。
指揮する桐野がかねてから「熊本城は青竹一本でひと叩きごわす」と豪語していたのは有名な話で、彼らは徴兵(一般平民)主体の政府軍を軽く見ていた。
そして熊本鎮台の政府軍(三千名)が開城勧告を拒否したため、熊本南方の川尻に集結した薩軍約一万三千名は二月二十二日、熊本城を一斉強襲したのである。
「絶叫して夕に渡る太郎山
眼下に草爾たる熊本城
手に唾して抜くべし立食の間」
桐野は当初、篠原と同様に熊本城強襲を考えていたが、結局は長囲策に転換して主力は福岡方面に北上することに決したのである(仮定の話だが、薩軍が全兵力で夜襲または払暁に吶喊斬り込み攻撃を敢行しておれば、兵力差から熊本城は陥落した可能性が高い)。
しかし桐野利秋の行動を見る限り、そこには深い思想性が感じられない。あるのは「薩摩隼人としての潔さ、底抜けの明るさ」である。額を撃ち抜かれて戦死した桐野の軍服からは、香水の匂いが漂っていたという。これも男の「ダンディズム」の一種と云うべきだろう。
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