賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

今月の唄『青年日本の歌』~二・二六事件

 
今月はどうしても二・二六事件に思いを馳せるので、この唄から。
 
この唄は昭和初期に多くの陸海軍の青年将校たちに唄われたが、彼らの中から昭和7年の五・一五事件、昭和11年の二・二六事件を引き起こし、または連座した者が多数輩出されたので有名である。
 
(昭和5年作) 青年日本の歌~ 別名、昭和維新の歌
作詞、作曲: 三上卓
 
一、泪羅(べきら)の淵に波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血汐湧く
 
二、権門上に驕れども 国を憂うる誠なし
  財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく)を思う心なし
 
三、嗚呼人栄え国滅ぶ 盲(めしい)たる民(たみ)世に躍る
  治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
 
(全十二番)
 
この唄は巷の昭和歌謡大全集やカラオケでは、『軍歌』のカテゴリーに分類されているが、それは大きな間違いである。軍部からみれば、軍人の政治関与と下克上を奨励しかねない歌詞であり、軍の統帥の根幹を揺るがすもの。
当然、軍非公認の唄である。
 
作詞者の三上卓佐賀県出身)は5.15事件に関与、逮捕された海軍中尉で、後に右翼の大御所的存在になる。三上が海軍兵学校を卒業し、少尉に任官した昭和3年、世は第一次世界大戦後の軍縮ブームであった。
 
日本史上初の普通選挙である第16回選挙が2月に行われたが、政財界の腐敗乱脈が激しくなったのもこの頃で、その流れに義憤を抱いた三上が昭和5年にこの唄を作ったのは、まさに時代を象徴していると云えよう。
 
その三上に大きな影響を与えた思想家が、権藤成卿(ごんどうせいきょう)である。権藤の思想は農本主義で、特に大化の改新建武の中興をはじめとする我が国の革新運動の志の継承を訴えていた。
 
権藤は明治元年、久留米の国学者の家に生まれた。国学を研究する傍ら、福岡・玄洋社内田良平と知り合い、内田が主宰する黒龍会に参画。後に  五・一五事件青年将校たちに思想的影響を与えたという嫌疑で逮捕されるが、無関係だったことが明らかとなり釈放される。
 
その権藤の影響を受けた三上中尉らが五・一五事件の際に襲撃したのが、時の首相・犬養毅であった。犬養は玄洋社頭山満の盟友であり、「話せばわかる」青年将校らを制したものの射殺された。犬養の死は玄洋社にとって大きな痛手であった。
 
● 戦後、三上卓に師事した人物の中でも有名なのが、元・稲川会最高幹部の舎弟で新右翼の論客・野村秋介である。
 
河野一郎邸焼き討ち事件、経団連襲撃事件で名を上げたが、その思想軸は我が国の自主独立の観点からのヤルタ・ポツダム体制打破」日米安保条約の破棄」であった。
 
平成5年(19931020日、野村氏は抗議のため訪れていた朝日新聞社東京本社の社長室にて、社長ほか朝日幹部の面前で拳銃自決した。
 
月光仮面の作者・川内康範氏は野村氏を評して、「日本浪漫派の最後の一人」と書いていたが、惜しむらくは、野村氏の衝撃的な自決をもってしても変えられなかった朝日新聞社反日体質である。日本の自主独立とヤルタ・ポツダム体制の打破は今後展開される国民運動の主題であるだけに、残念である。
 
● 私は昭和帝の意に背いて決起した青年将校の行動には全く賛同できないし()、彼らの背後で煽動していた北一輝などは偽装右翼、その実態は社会主義で評価に値しないと考えている。
 
しかし「青年日本の歌」の、この一節には共感を覚える。
 
九、功名何ぞ夢の跡 消えざるものはただ誠
  人生意気に感じては 成否を誰かあげつらう
 
映画226(平成元年、監督:五社英雄)で三浦友和扮する安藤輝三大尉が、ラストで呟くように唄っていたのが印象的であった。
 
()私はかねがねこう公言しているので、以前に某右翼団体の幹部の方から「あんたは青年将校たちの真心を判っておらん!」と怒られたが、あんまり責めないで下さいな。
 
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