賭狂がゆく

港澳(香港、マカオ)往来28年、人生如賭博

【今月の唄】比島決戦の歌

 
昭和19年10月のレイテ島攻防戦から始まったフィリピン攻防戦では、多数の日本軍人・軍属が戦死されている。当時フィリピンに展開していた総兵力は陸海軍合わせて約40万人、その内戦死・戦病死は約37万人にのぼり、更に在比民間人の死傷者は数知れずという甚大な損害を出した戦いだった。
 
特に昭和20年2月のマニラ市街戦では、総指揮の陸軍第14方面軍がマニラの放棄と無防備都市宣言を決めていたにもかかわらず、海軍がマニラ海軍防衛隊約1万4千人を編成して立て籠もり、激烈な市街戦の後にほぼ全滅。市街地の大半は廃墟と化し、巻き添えでマニラ市民70万人のうち約10万人が死亡したと云われている(戦後の対比賠償の根源)。
 
そのフィリピン攻防戦に際し、大本営陸軍部が読売新聞社に戦意高揚の歌を作るよう依頼。読売は作詞を西条八十に依頼し、昭和19年12月に出来たのがこの歌である。
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比島決戦の歌 (作詞:西条八十、作曲: 古関裕而
 
♪ 決戦かがやく アジアの曙
生命惜しまぬ若櫻
いま咲き競う フイリッピン
出てくりゃ地獄へ逆落とし
 
♪ 陸には猛虎の 山下将軍
海に鉄血 大河内
見よ頼もしの 必殺陣
出てくりゃ地獄へ逆落とし
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実は最後の「いざ来いニミッツマッカーサー~」以下の歌詞は、西条が書いたものではなかった。軍から西条への注文は「敵の将軍の名前を全部入れろ」という無茶苦茶なもの。
 
「いくらなんでも、そんなバカげた歌は出来ない。第一、敵の将軍の名前だけで、歌詞が全部埋まってしまうじゃないか」とあまりの馬鹿馬鹿しさに西条が断わったところ、陸軍報道部の某中佐が「それじゃ、俺が書く」と付け足してしまった。作曲の古関裕而も面食らったらしいが、出来てしまったのがこの歌である。
 
戦争末期の物資欠乏でレコード化もされなかった曲だが、ラジオでは流されていたらしい。筆者が小学6年生の時、戦中派の担任教師がこの歌を口ずさんでいたのを覚えているが、子供心にも「なんだこりゃ」と思ってしまった程の“怪作”。
 
大本営がこんな戦意高揚歌を流している一方で、フィリピンでは数十万の日本人が尊い命を散らしていった…。今年1月に天皇皇后両陛下が国交正常化60年に当たってフィリピンを公式訪問され、慰霊をなされたのは畏くも有難い限りであった。
 
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