22日にウクライナのゼレンスキー大統領が訪問先のカナダで議会演説した際に招かれていたウクライナ系カナダ人の98歳になる老人が旧ドイツ軍兵士であったことが明らかになり、カナダの下院議長が辞任する騒動となっている。
朝日新聞9月27日配信記事↓
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カナダ下院議長が辞任 「ナチス部隊」で戦った男性への称賛で批判
(https://www.asahi.com/articles/ASR9W2SL3R9WUHBI00K.html )
ウクライナのゼレンスキー大統領が22日にカナダ議会で演説した際、下院議長の招待者の中にナチスドイツが指揮した部隊で戦った男性が含まれていることが明らかになり、波紋を広げている。(以下略)
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この記事と他メディアの報道から察するに、この老人はWWⅡ当時ソ連邦からのウクライナ独立を目指してドイツに協力したウクライナ人部隊(ウクライナ国民軍第1師団)所属の兵士だったことに間違いない。
その詳細については下に述べているが、旧ドイツ軍は多種多様の民族・人種を糾合した外国人部隊を編成し、戦場に投入した。
また当ブログの9/22エントリー、
<高機動車流失、陸幕長がボケ発言>
(https://tafu1008.hatenablog.com/entry/2023/09/22/000658 )
内で旧ドイツ武装親衛隊(Waffen SS)の外国人部隊に倣って自衛隊
「川口不法滞在クルド人部隊」や「技能実習生崩れベトナム人部隊」
の編制を提言したので、ついでながら以前調べてメモ書きしてあった旧ドイツ軍の外人部隊について述べたい。
(武装SS記章)
第二次大戦中に戦闘消耗による人的資源の枯渇と占領地の拡大による保安人員の不足に悩まされたドイツ第三帝国は数多くの外人部隊を創設した。ただし正規軍であるドイツ国防軍は志願・徴兵共に正規のドイツ国籍を有する者と、例外では父がドイツ人でドイツ語を話せるズデーデン・チェコ人やアルザス・フランス人が対象となっていた。
そのため国防軍から人的資源の供給を制限されていた(そもそも徴兵権が無かった)武装親衛隊が非ドイツ人の受け入れ窓口となり、当初はノルウェーやデンマークなど北欧のゲルマン系人やベルギー、オランダ、フランスのドイツ系志願兵をもって部隊を編成した。有名な処では東部戦線で活躍したSS第5装甲師団「ヴィーキング(海賊)」、第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」や、フィンランドで戦った第6SS山岳師団「ノルト」がある。
次に着手したのが占領地各地の反共人士や戦前からナチスと友好関係にあった各国ファシスト党の党員・シンパから志願兵を募ることで、例えばベルギーのファシスト党の指導者レオン・デグレールを指揮官に同国ワロン人志願兵で編成した第28SS義勇擲弾兵師団「ヴァロニェン」や、オランダのファシスト政党関係者を主体とする義勇兵で編成した第34SS義勇擲弾兵師団 「ラントシュトーム ネーダーラント」などがある。
だが1942年以降、人員不足に悩む武装SSは占領地ロシアやウクライナ、ベラルーシは勿論のことバルカン半島やコーカサス地方などからも人員受け入れを始めた。これはナチ党の教義「スラブ人種劣等論」や「ゲルマン民族の優越」とは相反するものだったが、背に腹は代えられない武装SSは非ゲルマン系外人部隊を次々に編成した。その特徴的な部隊は例えば、
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→ 反共のロシア人、ベラルーシ人、捕虜となったソ連軍兵士の中でドイツ側に寝返った者で編成。1944年8月の「ワルシャワ蜂起」の際は独軍鎮圧部隊の一員となる。
ロシア人一般の反ポーランド感情をむき出しに、兵士・民間人を問わずポーランド人に対して流石の武装SSも絶句する程の虐殺・暴行・略奪・婦女強姦を繰り返した。戦後兵士の殆どは西側連合軍に投降したがソ連に引き渡され、捕虜ではなく反革命分子として処刑された。
→ ウクライナ西部ガリツィア地域のウクライナ人反共・反ロシア志願兵で編成されチェコスロヴァキアで対パルチザン戦に従事、終戦時はイギリス軍に投降した。
東部戦線所属の旧ソ連系兵士はソ連に引き渡されそのほとんどは粛清対象となったが、「ガリツィエン」の兵士たちは「自分たちは1939年のソ連のポーランド侵攻以前からのガリツィア在住旧ポーランド国民であり、祖国回復のためソ連軍と戦った」と主張し、なんとこの言い分が通ってソ連に引き渡されず、イギリスやカナダへの移住が認められた。
何故イギリス政府が移住を認めたか明確な文書は残っていないが(あるいは元々存在していないか)、戦後のソ連など共産側との冷戦に備えて反ソ連のウクライナ勢力を温存活用する意図があったのではないかと思える。
→ バルカン半島ボスニアのムスリムで編成され、反共・反ユダヤ主義・反セルビア人感情が行動の源泉となる。訓練や戦闘の最中も1日3回のアッラーへの祈りを欠かさなかったので部隊のドイツ軍幹部たちは頭を抱えていた。
主にチトー率いる共産ゲリラとの戦闘に従事。多くの虐殺事件を引き起こし、現代のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争にまで及ぶ禍根を残した。戦後多くの兵士はチトーのパルチザンに引き渡され拷問の末に虐殺された。
(ドイツ軍のイスラム教徒兵士。トルコ帽がユニーク)
→ 反共のフランス人義勇兵を基幹として編成。1941年創設時はドイツ国防軍肝煎りの「反共フランス義勇軍団」と称したが小規模な部隊でしかなかった。しかし1943年以降ヴィシー政権の承認の下で武装親衛隊麾下の「第8フランスSS義勇突撃旅団」となり1945年2月に師団へ昇格した。
東部戦線ではソ連軍も驚嘆する戦いぶりを示したが壊滅⇒再建を繰り返し、最終戦のベルリン攻防戦では他の非ドイツ人系SS部隊と共に圧倒的なソ連軍相手に奮戦した。大半は戦死し残存者もソ連の収容所で死亡、自由フランス軍に引き渡され祖国を裏切ったとして銃殺、また或る者はベトナム戦争(第一次インドシナ戦争)に従軍するなど波乱の人生を送った。
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またドイツ国防軍も東部戦線で捕虜となったソ連軍兵士の中から反ソ連の非ロシア系人を募り、民族毎に部隊編成を行っている。一般に「東方軍団(Ostlegionen)」と呼ばれ、その主なものは
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- 第15コサック軍団
→ 独ソ戦初期にドイツ軍に部隊ごと亡命したコサック部隊を基幹とするコサック騎兵2個師団。主に対パルチザン戦に従事し、終戦時にイギリス軍に投降。しかしソ連の圧力で英米側は彼らをソ連に引き渡し、その多くは非業の死を遂げた。
(ドイツ軍のアルメニア人兵士)
(ドイツ軍のアゼルバイジャン人兵士)
- コーカサス・モハメダン軍団 → チェルケス人、ダゲスタニ人、チェチェン人、イングーシ人、レズギン人で編成。
- 北コーカサス軍団、山岳コーカサス軍団 → アブハジア人、チェルケス人、カバルド人、バルカル人、カラチャイ人、チェチェン人、イングーシ人、ダゲスタン人、クルド人、タリシ人、北オセチア人で編成。
- トルキスタン軍団 → トルクメン人、ウズベク人、キルギス人、タジク人、その他の中央アジアの国籍者で編成の162個大隊。
(ドイツ軍のトルキスタン軍団兵士)
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この他にユニークなのが数十名~数百名の小規模な部隊で、
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- イギリス自由軍団
→ 捕虜のイギリス兵の中の反共・対独協力者20~30人で編成。ノルマンディー上陸作戦後の戦況悪化で脱走者が相次ぎ、戦局には何の影響も与えなかった。
- 自由インド兵団
→ 捕虜となったイギリス軍のインド人兵士から将来のインド進攻と独立の大義を説いて対独協力者となった2000人以上の参加者を得て、ドイツ国防軍管轄下で第950歩兵大隊として正式に発足した。指導者は当時ドイツに亡命中だったインド国民会議派元議長のスバス・チャンドラ・ボース。
部隊はフランス・ノルマンディー地域に駐留していたがノルマンディー上陸作戦をはじめとする西部戦線で米英仏連合軍に撃破され敗走。残存者は武装親衛隊に編入され「SS義勇インド軍団」を編制し、ベルリン攻防戦では他の非ドイツ人系SS部隊と共にソ連軍と戦った。
(ドイツ軍将校の閲兵を受けるインド人兵士)
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以上のドイツ軍外人部隊の中でも最後のベルリン市街戦に参加したフランス人やデンマーク人、ノルウェー人、スウェーデン人、オランダ人、ベルギー人、エストニア人、インド人たちがどのような思いで圧倒的多数のソ連軍に対して絶望的な激戦を展開したのか、今となっては知る由もない。
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